智恵内子(読み)ちえのないし

朝日日本歴史人物事典 「智恵内子」の解説

智恵内子

没年:文化4.6.20(1807.7.25)
生年:延享2(1745)
江戸時代の狂歌作者。狂歌師元木網の妻。名はすめ。明和6(1769)年初期の江戸狂歌壇に木網が参加したころから,同好の内子も狂歌を詠み,天明1(1781)年には隠居して芝西久保土器町に落栗庵を構え,夫婦そろって狂歌の指導をした。鹿都部真顔の数寄屋連をはじめとして門下が多く,「江戸中はんぶんは西の久保の門人だ」(『狂歌師細見』)といわれるほどであった。節松嫁々と共に女性狂歌師を代表する作者であり,その歌は『狂歌若葉集』『万載狂歌集』(ともに1783年)をはじめ,多くの集に入っている。「ふる小袖人のみるめも恥かしやむかししのふのうらの破れを」の歌のように女性らしい詠み口が特徴である。

(園田豊)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「智恵内子」の解説

智恵内子 ちえの-ないし

1745-1807 江戸時代中期-後期の狂歌師。
延享2年生まれ。元木網(もとの-もくあみ)の妻。夫とともに初期の江戸狂歌師として知られた。女流作者として朱楽菅江(あけら-かんこう)の妻である節松嫁々(ふしまつの-かか)とならび称された。文化4年6月20日死去。63歳。名はすめ。
格言など】六十あまり見はてぬ夢の覚むるかとおもふもうつつあかつきの空(辞世)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の智恵内子の言及

【狂歌】より

…明和年間(1764‐72)江戸山手の内山賀邸の門人たちが狂歌会を試みたのが始まりで,やがて急速に市中に広まり,天明から寛政(1781‐1801)にかけて狂歌の黄金時代を現出し,世にこれを天明狂歌と称する。唐衣橘洲(からごろもきつしゆう),四方赤良(よものあから),朱楽菅江(あけらかんこう),元木網(もとのもくあみ),平秩東作(へずつとうさく),智恵内子(ちえのないし)らはその錚々たる者で,豊かな趣味教養と軽妙洒脱な機知とを併せもつ人々である。これに次ぐ江戸狂歌の第二世代として宿屋飯盛,鹿都部真顔(しかつべのまがお),頭光(つぶりひかる),馬場金埒の狂歌四天王があり,なかでも天明調の純正狂歌を主張する飯盛と,優美高尚な狂歌を主張して〈俳諧歌〉と称した真顔は,文政(1818‐30)に至るまで長くライバルとして活躍した。…

【元木網】より

…内山賀邸門下の天明狂歌の古老で,落栗連(おちぐりれん)を率いて活躍。妻は智恵内子(ちえのないし)。編著《浜のきさご》《新古今狂歌集》。…

※「智恵内子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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