有田 八郎(読み)アリタ ハチロウ

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「有田 八郎」の解説

有田 八郎
アリタ ハチロウ


肩書
外相,衆院議員(小会派クラブ)

生年月日
明治17年9月21日

出生地
新潟県佐渡郡

学歴
東京帝大法科大学独法科〔明治42年〕卒

経歴
明治42年外務省に入り、領事館補からシカゴオタワ、ホノルル在勤を経て、昭和2年本省アジア局長、オーストリア公使、7年外務次官、8年ベルギー大使、11年中国大使から広田弘毅内閣の外相。13年貴院議員。第1次近衛文麿内閣、14年平沼麒一郎内閣、15年米内光政内閣の各外相を務め、戦争突入期の日本外交を担当。日独防共協定は締結したが、日独伊同盟の締結には最後まで反対した。戦後は追放解除後、28年新潟1区から衆院議員に当選。また東京都知事選に革進統一候補として2度出馬したが落選。28年には料亭「般若苑」の女性畔上輝井と再婚三島由紀夫の「宴のあと」に取り上げられ、プライバシー侵害で告訴騒ぎとなった。著書に「人の目の塵を見る」「馬鹿八と人はいう」など。

没年月日
昭和40年3月4日

家族
兄=山本 悌二郎(政治家)

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

20世紀日本人名事典 「有田 八郎」の解説

有田 八郎
アリタ ハチロウ

明治〜昭和期の外務官僚,政治家 外相;衆院議員(小会派クラブ)。



生年
明治17(1884)年9月21日

没年
昭和40(1965)年3月4日

出生地
新潟県佐渡郡

学歴〔年〕
東京帝大法科大学独法科〔明治42年〕卒

経歴
明治42年外務省に入り、領事館補からシカゴ、オタワ、ホノルル在勤を経て、昭和2年本省アジア局長、オーストリア公使、7年外務次官、8年ベルギー大使、11年中国大使から広田弘毅内閣の外相。13年貴院議員。第1次近衛文麿内閣、14年平沼麒一郎内閣、15年米内光政内閣の各外相を務め、戦争突入期の日本外交を担当。日独防共協定は締結したが、日独伊同盟の締結には最後まで反対した。戦後は追放解除後、28年新潟1区から衆院議員に当選。また東京都知事選に革進統一候補として2度出馬したが落選。28年には料亭「般若苑」の女性畔上輝井と再婚、三島由紀夫の「宴のあと」に取り上げられ、プライバシー侵害で告訴騒ぎとなった。著書に「人の目の塵を見る」「馬鹿八と人はいう」など。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

367日誕生日大事典 「有田 八郎」の解説

有田 八郎 (ありた はちろう)

生年月日:1884年9月21日
明治時代-昭和時代の外務官僚;政治家。外務大臣
1965年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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