有馬新七(読み)ありましんしち

日本大百科全書(ニッポニカ) 「有馬新七」の意味・わかりやすい解説

有馬新七
ありましんしち
(1825―1862)

江戸後期の薩摩(さつま)藩尊王攘夷(じょうい)の志士。諱(いみな)を正義といい、武麿(たけまろ)と号す。文政(ぶんせい)8年11月4日薩摩国(鹿児島県)伊集院(いじゅういん)郷に生まれたが、父の坂木正直が城下士有馬姓を継いだので加治屋(かじや)町に移る。幼少より文武に励み、東郷流弓術、神影(しんかげ)流剣術に達し、のち江戸に出て山口菅山(かんざん)に学び、崎門(きもん)学の精髄を極める。1845年(弘化2)京都に上り、梅田雲浜(うんぴん)らと交遊。1858年(安政5)幕府の無勅許条約調印の非違を正そうと画策したが、藩命により帰国。大久保一蔵(いちぞう)(利通(としみち))ら同志40余人と脱藩挙義を謀ったが、藩主慰諭により中止。1862年(文久2)3月島津久光(ひさみつ)(藩主忠義(ただよし)の父)の率兵上京に従うが、激派の真木和泉(まきいずみ)、田中河内介(かわちのすけ)らと挙兵討幕を策し、4月23日同志と伏見寺田屋に会したところを、久光の放った鎮撫使(ちんぶし)に上意討ちされた。享年38。墓は京都市伏見(ふしみ)区鷹匠(たかじょう)町の大黒寺。尊王論を説いて友人から「今高山彦九郎」とよばれた。

原口 泉]

『渡辺盛衛著『有馬新七先生伝記及遺稿』(1931・海外社)』


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朝日日本歴史人物事典 「有馬新七」の解説

有馬新七

没年:文久2.4.23(1862.5.21)
生年:文政8.11.4(1825.12.13)
幕末の薩摩(鹿児島)藩士,尊攘派の志士。父は坂木正直,伊集院郷の郷士で城下士有馬家を継いだ人。天保14(1843)年江戸に遊学,山口重昭の門に入り山崎闇斎の学統を修め帰藩。安政4(1857)年在江戸藩士の教育機関である糾合方勤務として赴任,翌5年入京し,水戸,長州,越前の志士と提携し井伊幕政の打倒工作を進め挫折,帰藩。翌6年,同志と共に脱藩挙兵を計画,藩主島津忠義から親諭され中止。同11月薩摩藩尊攘派ともいうべき誠(精)忠組に参加,その最激派に位置した。平野国臣,真木保臣の訪問を受け,京での挙兵計画を構想。文久2(1862)年3月島津久光の率兵上洛に随従,出立に当たり嫡子幹太郎に自叙伝を書き与え,妻ていを離別した。大坂到着の直後,真木保臣,田中河内介,小河一敏,久坂玄瑞ら各地の志士と共に関白・京都所司代襲撃を計画。4月23日大坂を脱して伏見寺田屋に移る。同日夜,久光は使者を送って中止を命じるが,朝廷への忠誠は藩へのそれに優先するとの信念に基づき抵抗,上意討ちにあい果てた(寺田屋事件)。<参考文献>渡辺盛衛『有馬新七先生伝記及遺稿』,橋本実『有馬新七』

(井上勲)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「有馬新七」の意味・わかりやすい解説

有馬新七
ありましんしち

[生]文政8(1825).11.4. 薩摩
[没]文久2(1862).4.23. 伏見
江戸時代末期の薩摩藩士。尊攘派の志士。初め郷士であったが,文政 10 (1827) 年有馬氏を継ぎ,安政3 (1856) 年上洛して梅田雲浜らと交わり,日米修好通商条約 (→安政五ヵ国条約 ) 調印や将軍継嗣問題に関しては,井伊直弼の独断的処置に反対。文久2 (1862) 年島津久光の上洛に際して田中河内介らと挙兵を策したが,鎮圧され,伏見寺田屋で斬死 (→寺田屋騒動 ) 。

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改訂新版 世界大百科事典 「有馬新七」の意味・わかりやすい解説

有馬新七 (ありましんしち)
生没年:1825-62(文政8-文久2)

江戸後期の薩摩藩士。諱(いみな)は正義。崎門学を修め激烈な尊王攘夷論者となる。1862年(文久2)島津久光の率兵上京の供に加わったが,ひそかに4月23日伏見の寺田屋に同志と集合し,関白九条尚忠,所司代酒井忠義を倒し青蓮院宮を戴いて義兵を挙げようとした。久光はこの不穏の情報に驚き,大山格之助ら9剣士を鎮撫にさし向けたが,格闘が勃発して,有馬ら7人は斬死した。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「有馬新七」の解説

有馬新七 ありま-しんしち

1825-1862 幕末の武士。
文政8年11月4日生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。江戸で山口菅山にまなび,尊攘(そんじょう)運動にくわわる。文久2年同志とともに京都所司代などの襲撃を計画したが,同年4月23日伏見の寺田屋で島津久光が派遣した藩士らに殺害された(寺田屋事件)。38歳。本姓は坂木。名は正義。号は武麿,埴鈴子。著作に「都日記」など。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「有馬新七」の解説

有馬新七
ありましんしち

1825.11.4~62.4.23

幕末期の尊攘派志士。鹿児島藩伊集院の郷士坂木正直の子。藩士として儒学・弓剣術を修めた。1856年(安政3)上洛し梅田雲浜(うんぴん)と交わる。大老井伊直弼(なおすけ)が通商条約調印や将軍後嗣決定にふみきると,同志と井伊要撃などを画策。62年(文久2)島津久光の上洛に従い,京都で活動中伏見寺田屋で久光派遣の同藩士に殺された。

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旺文社日本史事典 三訂版 「有馬新七」の解説

有馬新七
ありましんしち

1825〜62
幕末,薩摩藩の尊攘派志士
もと郷士出身。1856年上洛して王政復古を説き,井伊直弼 (なおすけ) の専断に反対し,'62年島津久光の上洛のとき挙兵討幕を計画。藩内急進派を率いて京都所司代らを襲おうとしたが,久光の討手をうけ,伏見寺田屋で斬られた。

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367日誕生日大事典 「有馬新七」の解説

有馬新七 (ありましんしち)

生年月日:1825年11月4日
江戸時代末期の志士
1862年没

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世界大百科事典(旧版)内の有馬新七の言及

【寺田屋事件】より

…薩摩藩主の父にあたる島津久光は幕府と長州藩による公武合体策の失敗後,雄藩連合による公武合体たて直しをめざして上京した。薩摩藩士有馬新七,田中謙助,大山巌,西郷従道,三島通庸らと浪士の清川八郎,田中河内介,真木和泉らは,これを機会とみて京都に集まり,佐幕派の関白九条尚忠,所司代酒井忠義殺害の計画を立てた。この動きを察知した久光は激派志士たちが寺田屋で会合中をねらい,同藩士奈良原繁,大山綱良ら9人を鎮圧のために派遣。…

※「有馬新七」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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