服部 智恵子(読み)ハットリ チエコ

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「服部 智恵子」の解説

服部 智恵子
ハットリ チエコ


職業
バレリーナ,バレエ演出家,振付師

肩書
服部島田バレエ団主宰,日本バレエ協会会長

生年月日
明治41年 12月25日

出生地
ロシア・ウラジオストック

学歴
レニングラード・バレエ学校卒

経歴
貿易商の長女としてロシアのウラジオストックで生まれる。大正4年同地にてリュジンスキーについてバレエを習う。9年単身帰国して京都の伏見桃山女子師範附属女学校に入学。12年目を患って2ヶ月ほど入院治療した後、ウラジオストックへ戻った。14年一家で帰国。エリアナ・パヴロワ・バレエ団に入団。以来、エリアナ・パヴロワに師事したが、昭和16年師が破傷風のために急逝。18年島田広と服部・島田舞踊団及び研究所を創立。同年島田と大東亜舞踊劇団を創立・主宰。19年山田耕筰指揮の東京交響楽団で舞踊詩曲「盲鳥」を島田と振り付け、主役を演じて好評を博した。21年島田の提唱により蘆原英了をまとめ役にして貝谷八百子、小牧正英らと東京バレエ団を結成。同年大東亜舞踊劇団を服部・島田バレエ団とし、リサイタル形式による第1回服部・島田バレエ団を開催。27年ラフマニノフ曲創作バレエ「さまよえる肖像」、30年ストリンドベリー原作、石井歓作曲の創作バレエ「令嬢ジュリー」を初演、代表作となった。31年日ソ講和条約調印全権団に鳩山一郎首相の秘書として随行、ボリショイ・バレエ団の初来日公演の招聘に成功した。40年服部智恵子舞踊生活40周年記念リサイタルを開催。45年服部・島田バレエ団及び研究所を閉鎖。46年日本バレエ協会運営委員長、49年同協会の社団法人化に伴い初代会長に就任した。没後、その功績を記念して服部智恵子賞が創設された。

所属団体
日本バレエ協会

受賞
紫綬褒章〔昭和48年〕,勲四等宝冠章〔昭和54年〕 芸団協功労者賞〔昭和51年〕,橘秋子賞(特別賞 第3回)〔昭和52年〕,日本バレエ協会舞踊文化功労賞〔昭和58年〕

没年月日
昭和59年 3月30日 (1984年)

家族
夫=島田 広(舞踊家)

伝記
ワトソン・繁子―バレリーナ服部智恵子の娘 鈴木 れいこ 著(発行元 彩流社 ’06発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「服部 智恵子」の解説

服部 智恵子
ハットリ チエコ

昭和期のバレエ演出家・振付師 服部島田バレエ団主宰;日本バレエ協会会長。



生年
明治41(1908)年12月25日

没年
昭和59(1984)年3月30日

出生地
ロシア・ウラジオストク

学歴〔年〕
レニングラード・バレエ学校卒

主な受賞名〔年〕
紫綬褒章〔昭和48年〕,橘秋子賞特別賞〔昭和52年〕,勲四等宝冠章〔昭和54年〕

経歴
19歳で日本に帰り、エリアナ・パヴロワに師事した後、昭和18年島田宏と服部・島田バレエ団を創立。翌年山田耕筰指揮の東京交響楽団で「盲鳥」を上演して好評を博した。以来、終戦前後の激動期にも踊り続けた日本バレエ界の草分け的存在。創作バレエに「さまよえる肖像」「令嬢ジュリー」などがある。後に蘆原栄了、小池正英、島田宏らと東京バレエ団を結成、後進の指導育成にも力を注いだ。46年から日本バレエ協会会長。没後、その功績を記念して服部智恵子賞が創設された。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

367日誕生日大事典 「服部 智恵子」の解説

服部 智恵子 (はっとり ちえこ)

生年月日:1908年12月25日
昭和時代の舞踊家。服部島田バレエ団主宰;日本バレエ協会会長
1984年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

今日のキーワード

脂質異常症治療薬

血液中の脂質(トリグリセリド、コレステロールなど)濃度が基準値の範囲内にない状態(脂質異常症)に対し用いられる薬剤。スタチン(HMG-CoA還元酵素阻害薬)、PCSK9阻害薬、MTP阻害薬、レジン(陰...

脂質異常症治療薬の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android