服部撫松(読み)はっとりぶしょう

改訂新版 世界大百科事典 「服部撫松」の意味・わかりやすい解説

服部撫松 (はっとりぶしょう)
生没年:1841-1908(天保12-明治41)

戯文家。陸奥二本松(福島県)生れ。本名誠一。二本松藩儒官を務めたのち1870年(明治3)上京。74年文明開化世態を戯文調で描いた《東京新繁昌記》初編が大当りする。76年より《東京新誌》《広益問答新聞》などを創刊。得意の戯体漢文で政府内幕をあばき,民権拡張を唱え,自由民権期のジャーナリズムで活躍した。著作活動ののち96年宮城県尋常中学校の作文教師となり,死去までその職にあった。教え子吉野作造がいる。
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百科事典マイペディア 「服部撫松」の意味・わかりやすい解説

服部撫松【はっとりぶしょう】

戯文家,ジャーナリスト。本名誠一。岩代国二本松藩(現福島県)の儒者の家に生まれ,廃藩後職を失う。1874年,寺門(てらかど)静軒の《江戸繁昌記》にならって,文明開化世相・風俗を漢文戯作体で活写した《東京新繁昌記》を出版,大好評となる。その収益で漢文戯作雑誌《東京新誌》を創刊,明治政府の高級官吏(鯰)と芸者(猫)の情事を暴露して江湖の喝采を博したが,たびたび発禁にあい,1883年廃刊。その他政論新聞にも関係したが,1896年より仙台一中の作文教師となる。このときの教え子に吉野作造らがいる。他に《二十三年 国会未来記》など。

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朝日日本歴史人物事典 「服部撫松」の解説

服部撫松

没年:明治41.8.15(1908)
生年:天保12.2.15(1841.4.6)
明治時代,開化期を代表する文筆家。本名誠一,撫松は号。二本松藩(福島県)の儒官の家に生まれ,儒学教授を勤める。明治2(1869)年公用人として東京勤務。4年廃藩後『東京新繁昌記』(1874~76)を執筆。開化の世相を描くのに自由で猥雑な造語修辞,口語体のルビによる変体漢文を駆使,絶大な人気を誇る。その勢いで以後『東京新誌』(1876)を皮切りに発禁や廃刊にめげず雑誌を次々と発行。戊辰戦争来の反官意識や社会諷刺は『江湖新報』(1880)などの政論雑誌へ展開した。立憲改新党にかかわり『稚児桜』(1887)などの政治小説も書く。29年以後仙台の中学の漢文教師。教え子に吉野作造らがいる。

(徳盛誠)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「服部撫松」の意味・わかりやすい解説

服部撫松
はっとりぶしょう
(1842―1908)

戯文家、ジャーナリスト。本名誠一。磐城(いわき)国安達(あだち)郡岳下(だけした)村(福島県二本松市)の二本松藩儒官の家に生まれる。明治になって上京し、文明開化の世相を漢文体戯文で風刺する『東京新繁昌(はんじょう)記』(初編、1874)で文名をあげた。『東京新誌』『春野草紙』などの戯文雑誌を主宰し、『広益問答新聞』『中外広問新報』『江湖新報』などの政論紙を刊行して、改進党系のジャーナリストとして活躍し、『二十三年国会未来記』(1886)などの政治小説も刊行した。

[興津 要]

『興津要著『明治開化期文学の研究』(1968・桜楓社)』


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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「服部撫松」の解説

服部撫松 はっとり-ぶしょう

1841-1908 明治時代の戯文家。
天保(てんぽう)12年2月15日生まれ。もと陸奥(むつ)二本松藩(福島県)の儒者。明治7年「東京新繁昌記」を出版,文明開化期の世相を漢文体の戯文で風刺して評判となる。以後,雑誌「東京新誌」「江湖新報」を発行。明治41年8月15日死去。68歳。本名は誠一。著作に「第二世夢想兵衛胡蝶(こちょう)物語」など。
【格言など】世界は活劇なり,故に変遷定まらず,人智は活機なり,故に開進窮まらず(「東京新繁昌記後編」)

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