木下氏(読み)きのしたうじ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「木下氏」の意味・わかりやすい解説

木下氏
きのしたうじ

豊臣秀吉(とよとみひでよし)およびその妻(北政所(きたのまんどころ))の一族。秀吉の父弥右衛門(やえもん)は、織田信長の父信秀(のぶひで)に鉄砲の者として仕え、木下を称していたが、出自は不明である。一族も木下を称したが、秀吉が羽柴(はしば)・豊臣と改称するに応じて、それぞれ改称した。北政所は、播磨(はりま)の土豪杉原(すぎはら)氏の出身で、祖父の代に尾張(おわり)に移住した。伯父杉原家次(いえつぐ)は、元亀(げんき)(1570~1573)のころより秀吉に仕え、本能寺(ほんのうじ)の変(1582)後、京都奉行(ぶぎょう)となり、また近江(おうみ)坂本城主(滋賀県大津市)として3万石余を領し、ついで丹波(たんば)福知山(ふくちやま)城主(京都府福知山市)となった。家次死後、妹婿の定利(さだとし)が家督を継ぎ、その子家定(いえさだ)(北政所の兄)の代より木下を称した。家定は大坂城留守居役となり、播磨姫路城(ひめじじょう)(兵庫県姫路市)2万5000石を領した。関ヶ原の戦いでは北政所の守護にあたり、のち備中(びっちゅう)(岡山県)足守(あしもり)城主となった。家定には男子が多く、嫡男は歌人長嘯子(ちょうしょうし)として有名な若狭(わかさ)小浜(おばま)(福井県小浜市)6万石の領主勝俊(かつとし)、五男は小早川(こばやかわ)家の養子となった秀秋(ひであき)である。この2家は絶えたが、二男利房(としふさ)は大坂の陣の功により家督を継いで備中足守2万5000石、三男延俊(のぶとし)は関ヶ原の戦いの功によって豊後(ぶんご)日出(ひじ)(大分県速見(はやみ)郡日出町)3万石をそれぞれ領し、大名家として版籍奉還まで続いた。1884年(明治17)ともに子爵となった。

[池 享]


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改訂新版 世界大百科事典 「木下氏」の意味・わかりやすい解説

木下氏 (きのしたうじ)

近世大名。豊臣秀吉の生家木下氏と秀吉の妻(高台院)の実家杉原氏流木下氏がある。秀吉の父弥右衛門は織田信秀の足軽で尾張中村の百姓。秀吉は信長に仕え木下藤吉郎と名のるが,出世に伴い1573年(天正1)羽柴氏に,さらに86年豊臣氏に改姓した。杉原氏は定利の女が秀吉の妻(北政所)となり,秀吉の一族として繁栄,北政所の伯父家次は秀吉に仕え丹波福知山城主となった。兄家定は秀吉に近侍し木下姓に改めて播磨姫路城主,関ヶ原の戦後備中足守(あしもり)に移封された。家定の長男勝俊,次男利房もそれぞれ若狭の小浜,高浜の城主であったが,関ヶ原の戦後ともに改易。勝俊は和歌に長じ長嘯子と号して京都に隠棲したが,利房は大坂の陣で徳川方に参加し1615年(元和1)父の遺領を継ぎ備中足守藩主(2万5000石)となり,以後明治に至り子爵。家定の三男延俊は関ヶ原の戦で東軍に属し,功により豊後日出(ひじ)藩主(3万石)となり,以後明治に至り子爵。家定の五男は,小早川隆景の養子秀秋である。
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