木更津(読み)きさらづ

精選版 日本国語大辞典 「木更津」の意味・読み・例文・類語

きさらづ【木更津】

[一] 千葉県中西部、東京湾の東岸にある地名中世には鎌倉と海路で結ぶ港町として栄え、近世には安房上総年貢米や旅行者を江戸へ輸送する木更津船根拠地になった。現在は対岸の神奈川県川崎市との間に東京湾横断道路(通称東京湾アクアライン)が通じる。昭和一七年(一九四二)市制。
[二] 明治四年(一八七一)の廃藩置県により成立した県。上総、安房の二か国を合わせて設置され、同六年印旛県と合併して千葉県となる。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「木更津」の意味・読み・例文・類語

きさらづ【木更津】

千葉県中西部、東京湾東岸にある市。小櫃おびつ下流にあり、河口部の広い盤洲ばんず干潟は潮干狩り場として有名。東京湾横断道路の千葉県側の接岸地。中世は鎌倉と、近世には江戸と結ぶ港として繁栄。人口12.9万(2010)。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「木更津」の解説

木更津
きさらづ

鎌倉時代よりみえる地名で、菅生すごう庄のうち。現在の木更津地区を含む一帯に比定される。現茂原もばらさん永興えいこう寺の本尊釈迦如来像胎内文書中の文永一〇年(一二七三)六月一八日の奉納願文に「きさらすの女房」とみえ、当地に居住していたと考えられる。時衆過去帳(清浄光寺蔵)に貞和四年(一三四八)八月一八日乗阿弥陀仏とあり、その裏に上総来去津と記される。文和二年(一三五三)七月二二日に「木更津」より御衣木が到来し、妙光みようこう(現茂原市藻原寺)の四天造立に充てられたようである(「仏像伽藍記」藻原寺文書)。永興寺が金沢称名寺と由縁が深かったことを含め、当津が水陸の要所として茂原方面と結ばれていたことが想定できる。鎌倉本覚ほんがく寺蔵の応永一七年(一四一〇)一一月八日の梵鐘銘に「上総州菅生庄木佐良津八幡宮御宝前」とみえ、菅生庄内であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「木更津」の意味・わかりやすい解説

木更津[市] (きさらづ)

千葉県中部,東京湾に面する市。1942年市制。人口12万9312(2010)。市の北部を流れる小櫃川の三角州に弥生~古墳時代の菅生遺跡や金鈴が出土した金鈴塚古墳大塚古墳などがあり,古代から対岸武蔵国に渡る船着場であった。中世は鎌倉街道の基点で,近世には木更津船が江戸幕府から江戸と安房,上総の渡船営業権を与えられ,江戸船町(現,中央区日本橋)に木更津河岸を公認されていた。その起りは大坂冬の陣で木更津の水夫が徳川方に協力したための論功行賞という。江戸市民の信仰を集めた鹿野山の登山口であり,切られ与三で有名な歌舞伎《与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)》の舞台ともなった。1871年(明治4)安房,上総を管轄する木更津県の県庁が旧桜井藩主邸を改造して置かれ,73年木更津県が千葉県となるまで続いた。1936年に海軍航空隊と海軍航空厰が設置され,現在も自衛隊の基地がある。京葉臨海工業地域の貿易港として発展,館山自動車道も通じて人口が増加している。JR内房線と久留里線の分岐点をなす。木更津駅前には多くの大型店が進出して港湾中心の旧中心商店街を圧している。市内の光明寺には切られ与三の墓があり,狸ばやしの伝説が残る証誠(しようじよう)寺もある。1997年12月に川崎との間に自動車専用の東京湾横断道路(東京湾アクアライン,全長15.1km)が開通した。館山自動車道が南北に横切る。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

今日のキーワード

黄砂

中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...

黄砂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android