本多忠央(読み)ほんだ・ただなか

朝日日本歴史人物事典 「本多忠央」の解説

本多忠央

没年:天明8.6.24(1788.7.27)
生年:宝永5(1708)
江戸中期の若年寄正徳1(1711)年12月,三河挙母藩(愛知県豊田市)藩主就任。寛延2(1749)年2月遠江国相良(静岡県相良町)に転封。同7月寺社奉行。宝暦4(1754)年美濃国郡上藩(岐阜県郡上八幡町)では,年貢増徴を企図。藩主金森頼錦の縁者たる忠央を通じ勘定奉行大橋親義に接近し,大橋が推挙した者に年貢増徴を行わせたが,農民はそれに反対し一揆を起こした。この一揆は,同8年7月評定所の吟味となった。同年3月,忠央は既に西丸若年寄に就任していたが,関係者としての責任を問われ,同9月罷免,10月改易となる。一揆が原因で改易となった稀有な例である。<参考文献>山田忠雄「宝暦―明和期の百姓一揆」(『日本経済史体系』4巻)

(安藤優一郎)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「本多忠央」の解説

本多忠央 ほんだ-ただなか

1708-1788 江戸時代中期の大名
宝永5年生まれ。本多忠次長男。正徳(しょうとく)元年4歳で三河(愛知県)挙母(ころも)藩主本多家3代となる。寛延2年遠江(とおとうみ)(静岡県)相良に転封(てんぽう)。宝暦8年西丸若年寄にすすむ。同年美濃(みの)(岐阜県)八幡(はちまん)藩の百姓一揆(いっき)(金森騒動)に関連して領地没収となり,美作(みまさか)(岡山県)津山に配流された。天明8年6月24日死去。81歳。

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