東慶寺(読み)とうけいじ

精選版 日本国語大辞典 「東慶寺」の意味・読み・例文・類語

とうけい‐じ【東慶寺】

神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の寺。山号は松岡山(しょうこうざん)鎌倉尼五山の一つ。弘安八年(一二八五北条時宗の妻覚山志道尼(覚山尼)が開山。開基北条貞時後醍醐天皇の皇女用堂尼が入寺して以来松ケ岡御所と呼ばれ、代々名家の息女が住持江戸時代には縁切寺駆込寺として知られ、離縁を望む妻が寺にかけ込めば、夫との交渉を引きうけてくれ、またそれが不成立でも、三年間(のち二年間)修行すれば離縁が許された。明治三五年(一九〇二)古川堯道の入寺以後、男僧寺となる。

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デジタル大辞泉 「東慶寺」の意味・読み・例文・類語

とうけい‐じ【東慶寺】

神奈川県鎌倉市にある臨済宗円覚寺派の寺。山号は松岡山しょうこうざん鎌倉尼五山の一。開創は弘安8年(1285)、開山は北条時宗の妻覚山尼。覚山尼の定めた「縁切寺法」により、離縁を望む女人救済の寺として、特に江戸時代縁切り寺・駆け込み寺として知られた。明治36年(1903)から僧寺。松ヶ岡御所。→縁切り寺

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日本歴史地名大系 「東慶寺」の解説

東慶寺
とうけいじ

[現在地名]鎌倉市山ノ内

円覚寺向い側の丘陵にある。臨済宗円覚寺派。松岡山東慶総持禅寺という。本尊釈迦如来。開山覚山志道尼、開基北条貞時と伝える。

覚山尼は安達義景の娘、北条時宗夫人。「五山記考異」に「潮音院殿覚山志道大師 東慶寺開山也」とある。「鎌倉志」は時宗没翌年の弘安八年(一二八五)に当寺が創建されたとする。開基北条貞時は時宗と覚山尼の子。元徳四年(一三三二)鋳造の梵鐘銘文によると、この時の住持は果庵了道であった(静岡県本立寺蔵旧東慶寺鐘銘)。永徳三年(一三八三)の夢窓疎石三十三回忌仏事注文(県史三)には「諸禅律僧尼寺十七箇所」に「東慶」の名がみえる。了道尼のあと住持となった用堂尼は、後醍醐天皇皇女で応永三年(一三九六)(相州鎌倉松岡過去帳)。寺伝では用堂尼以来松岡御所と称せられたという。以後歴代住持は足利氏出身者が多く、「殿中以下年中行事」によると、毎年一月一六日に鎌倉尼五山の一つとして関東公方に拝謁している。

永正一二年(一五一五)炎上、本尊釈迦如来像のみが難を逃れ、同一五年修理が施された(「像銘文」鎌倉市史史料編三)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「東慶寺」の意味・わかりやすい解説

東慶寺
とうけいじ

神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済(りんざい)宗円覚(えんがく)寺派の寺。松岡山(しょうこうざん)と号し、松ヶ岡御所(まつがおかごしょ)とも、また俗に縁切寺(えんきりでら)、駆入(かけいり)寺、駆込(かけこみ)寺などともよばれた。本尊は釈迦如来(しゃかにょらい)。開山は北条時宗(ときむね)の夫人覚山志道尼(かくざんしどうに)(覚山尼(かくざんに))、開基はその子の北条貞時(さだとき)。1284年(弘安7)北条時宗が亡くなると、夫人潮音院殿(ちょうおんいんでん)は落飾して覚山尼と称し、翌85年この寺を開創建した。代々、足利(あしかが)氏出身の息女が多く尼住持となって法燈(ほうとう)を守り続け、室町時代には鎌倉尼五山第二に列し、1902年(明治35)まで男子禁制の尼寺であった。5世の用堂尼(ようどうに)は後醍醐(ごだいご)天皇の息女で、このときから松ヶ岡御所と称されたという。覚山尼は、不法な夫に苦しむ女性を救おうとして、女性が一度この寺に駆け込み3年間寺奉公をすれば自動的に離婚が成立するという縁切寺法を定め、わが子の北条貞時に申請して勅許されたといわれる。20世の天秀尼(てんしゅうに)は豊臣秀頼(とよとみひでより)の息女で、大坂落城ののち当寺に入り、よく寺法を守ったという。江戸時代には相模(さがみ)や関東各地からこの寺に駆け込む女性が多く、「松ヶ岡男の意地をつぶすこと」「縁なき衆生(しゅじょう)を済度(さいど)する松ヶ岡」などと川柳(せんりゅう)に多く詠まれた。江戸時代には寺領120貫で建長寺より多く、鎌倉では建長寺、円覚寺とともに三大寺と称された。明治以後、寺法は廃され、円覚寺管長釈宗演(しゃくそうえん)が中興して僧寺となった。寺宝には、木造聖観音(しょうかんのん)立像、初音蒔絵(はつねまきえ)火取母、葡萄(ぶどう)蒔絵螺鈿(らでん)聖餅箱(以上、国重要文化財)などのほか寺法関係の文書がある。境内には山門、庫裡(くり)、書院泰平殿、水月堂などがあり、境内奥の墓地には、用堂尼・天秀尼などの墓のほか、西田幾多郎(きたろう)、岩波茂雄、太田水穂(みずほ)、田村俊子(としこ)、鈴木大拙(だいせつ)、和辻(わつじ)哲郎など学者・文化人の墓が多い。裏山には鈴木大拙創立の松ヶ岡文庫がある。花の寺としても名高い。

[菅沼 晃]

『井上禅定著『駈込寺東慶寺史』(1980・春秋社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「東慶寺」の意味・わかりやすい解説

東慶寺 (とうけいじ)

神奈川県鎌倉市にある臨済宗円覚寺派の寺。松岡山東慶総持禅寺といい,松岡御所とも称された。北条貞時を開基,覚山志道尼(北条時宗後室)を開山として,1285年(弘安8)開創と伝える。中興開山は20世天秀法泰尼(豊臣秀頼の娘)と伝える。江戸時代の寺領は112貫380文。この寺は代々尼僧が住職をついでおり,そのため女性の悩みを持ちこまれることが多く,江戸時代には俗に〈縁切寺〉〈駆込寺〉と呼ばれた。寺法によれば,〈かけこみ女〉が3年間寺に身をおけば離縁ができることになっている。寺蔵の縁切証文は1738年(元文3)が最古であり,その多くは江戸時代末に集中している。残存する縁切証文からみるかぎり,かけこみ女の出身地はほぼ武蔵,相模の2国に集約できる。かけこみ女のうち寺で3年間生活する者はわずかで,その多くは,離婚のきっかけに東慶寺を利用している。明治維新により縁切仕法は廃止され,明治末年からは尼寺ではなくなっている。木造聖観音立像などが重要文化財に指定され,境内には西田幾多郎,和辻哲郎,高見順など学者や文学者の墓が多い。
縁切寺
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百科事典マイペディア 「東慶寺」の意味・わかりやすい解説

東慶寺【とうけいじ】

鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の尼寺。本尊釈迦如来。1285年北条時宗の後室,覚山尼の開創。縁切の寺法をたてて勅許を得,江戸時代には,豊臣秀頼の娘天秀尼が徳川家康から認可を受け,江戸時代を通じて縁切寺の特権を維持。なお5世の用当尼は後醍醐天皇の皇女であったので,以後松ヶ岡御所とも呼ばれる。
→関連項目満徳寺

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「東慶寺」の解説

東慶寺
とうけいじ

神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の寺。松岡山と号す。1902年(明治35)まで尼寺であった。開山は北条時宗の妻の覚山志道尼(かくざんしどうに),開基は子の貞時。1285年(弘安8)開創。鎌倉尼五山の第2位。離縁を望む女性が駆けこめば離婚を認められる縁切寺(駆込寺)として有名。室町時代の木造釈迦如来座像,太平寺伝来の土紋をもつ鎌倉時代の木造聖観音菩薩立像(重文)などがある。

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旺文社日本史事典 三訂版 「東慶寺」の解説

東慶寺
とうけいじ

鎌倉松ケ岡にあった縁切寺
臨済宗円覚寺派の寺。山号は松岡山。1285年創建。格式が高く,20世法泰尼は豊臣秀頼の娘。妻の方からの離婚が難しかった時代に,この寺にかけこめば寺法によって離婚できる特権をもった尼寺で,駆込寺 (かけこみでら) ともいわれた。明治時代以後,男性住職。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「東慶寺」の意味・わかりやすい解説

東慶寺
とうけいじ

鎌倉市山ノ内にある臨済宗の寺。弘安8 (1285) 年北条時宗の後室である覚山尼の創建。俗に縁切寺または駆込寺という。横暴な夫と結ばれた不幸な婦人を救うために,そのような婦人がこの寺に入って3年間仏事を修めれば,夫との縁が切れ独立できることを寺法とし,勅許を得て後世長く行われた。

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デジタル大辞泉プラス 「東慶寺」の解説

東慶寺

神奈川県鎌倉市山ノ内にある寺院。臨済宗円覚寺派の尼寺。山号は松岡山(しょうこうざん)。1285年開創。本尊は釈迦如来。江戸時代には幕府公認の縁切寺(駆込寺)のひとつとして知られた。

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世界大百科事典(旧版)内の東慶寺の言及

【アジール】より

… 江戸時代,アジールはわずかに縁切寺と火元入寺の制にその名ごりをとどめた。縁切寺としては鎌倉の東慶寺と上州世良田の満徳寺の二寺のみが黙許されていたが,東慶寺は江戸時代の中期にも助命嘆願の女性を救済した例がある。離縁を願って駆け込む妻が追手に捕らわれそうになったとき草履など身につけていた物を門内に投げ入れると入寺したとみなされたが,これは駆込みと同時にアジール権が発動されたことを端的に語っている。…

【縁切寺】より

…離縁状を交付しない夫に対して,妻(側)からの離婚請求権は法律上きわめて限定されていたが,その一つに縁切寺への駆込みがあった。縁切寺はアジールの残存と考えられ,江戸時代初期尼寺には一般に縁切寺的機能があったと思われるが,中期以降になると鎌倉松ヶ岡の東慶寺と上州(群馬県)勢多郡徳川郷の満徳寺の2ヵ寺のみに限られた。両寺が江戸時代を通じて縁切寺たりえたのは,徳川家康の孫娘千姫にかかわる由緒による。…

【駆込】より

…日本の中世・近世社会に広く見られるものである。江戸時代,鎌倉松ヶ岡の東慶寺や上野国世良田の満徳寺が縁切寺として,寺内へ駆け込んだ女性に離婚の成立する慣行があったことはよく知られている。また奥州の守山藩では罪を犯した百姓たちが,その菩提寺などに駆け入り,〈寺抱え〉となることによって藩の処罰をうけずにすむ慣行が存在していた。…

※「東慶寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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