東淀川区(読み)ヒガシヨドガワク

デジタル大辞泉 「東淀川区」の意味・読み・例文・類語

ひがしよどがわ‐く〔ひがしよどがは‐〕【東淀川区】

東淀川

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「東淀川区」の解説

東淀川区
ひがしよどがわく

面積:一三・一五平方キロ

大阪市の北部に位置し、安威あい川および神崎川と淀川に挟まれた区。北は東から摂津市・吹田すいた市、東は守口もりぐち市、南は旭区および大淀区、西は国鉄東海道本線を境に淀川区。区を東西に国鉄東海道新幹線が縦断し、西端の東海道本線との交差部に新大阪駅がある。また区の南西から北部にかけて阪急電鉄京都線・同千里線・国鉄城東貨物線などの鉄道が通る。淀川には東部では旭区から豊里とよさと大橋、西部には大淀区から長柄ながら橋が架かる。

〔原始〕

縄文時代前期、上町うえまち台地の東側には河内湾が広がっていたが、当区は台地北方の湾の出口付近にあたっていた。縄文晩期―弥生時代前期にかけ、上町台地の先端から北へ延びる天満てんま砂堆が発達して当区西端の一部が陸地化した。このため河内湾の入口が狭まり、大阪湾からの海水の流入が少なくなって河内潟となった。西部の淡路あわじ地区の弥生時代初め頃の地層から海水と淡水の混じる所に住むチリメンユキガイが出土している。弥生時代後期―古墳時代になると天満砂堆がさらに発達して河内潟はほとんどふさがって河内湖となった。昭和二年(一九二七)中島なかじま惣社境内の山口やまぐち遺跡から弥生式土器が出土し、弥生時代中期、北へ延びた天満砂堆に集落のあったことが確認された。また同一二年、現豊里一丁目付近から弥生―古墳時代の複材刳船が出土している(戦災で焼失)。古墳時代中期以降、淀川の下流には三角洲が発達し、長柄川の新水路もできている。

〔古代〕

区東部の大桐だいどう大隅おおすみ瑞光ずいこう小松こまつの一帯は、「日本書紀」安閑天皇二年九月一三日条にみえる大隅島であると伝えられ、また応神天皇の大隅宮も旧西大道にしだいどう村付近にあったとの伝承もある。しかし、現在では大隅宮の存在自体が疑問視されている。また聖徳太子は大隅島を四天王寺(現天王寺区)創建の候補地とし、のち西大道付近に三宝さんぽう寺という別所を置いたとも伝える。また、「日本書紀」推古天皇一六年六月一五日条などにみえる「江口」「難波江口」を当区の江口えぐちとみる説があるが、江口の発展は延暦四年(七八五)淀川と三国みくに(現神崎川)が結ばれてからのこととみる説が有力である。天平一三年(七四一)聖武天皇の勅によって摂津国分尼寺が創建された。柴島くにじまにあった法華ほつけ寺がそれで、伽藍の礎石・塔心礎数個が残る。また天平年間行基が開いたと伝え、近世の薬師堂やくしどう村の村名由来ともなった薬師堂は摂津国分尼寺の一院ではなかったかと推定されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「東淀川区」の意味・わかりやすい解説

東淀川〔区〕
ひがしよどがわ

大阪市北東部,淀川右岸の区。 1925年第2次市域拡張に伴って新設。 43年大淀区,74年淀川区を分区。東,南は淀川,北は安威川と神崎川,西は JR東海道本線に囲まれた淀川沖積地で,平安時代に河港として栄えた江口を除いてはほとんど水田地帯であったが,大正初期に現阪急電鉄京都線,千里線などが通じてから市街化が進み,工場も進出。淀川の水利に恵まれ,紡績,染色,晒工業をはじめ,製薬などの化学工業,製紙,機械工業などが発達,現在は大阪北部工業地域の一部をなす。淀川沿いの柴島 (くにじま) に浄水場,名所としては寂光寺 (江口の君堂) ,崇禅寺などがある。区域の中央を東海道新幹線が横断,区の西端に新大阪駅がある。面積 13.27km2。人口 17万7120(2020)。

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