松井 須磨子(読み)マツイ スマコ

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「松井 須磨子」の解説

松井 須磨子
マツイ スマコ


職業
女優

本名
小林 正子

生年月日
明治19年 3月8日

出生地
長野県 埴科郡清野村(長野市)

学歴
戸板裁縫女学校〔明治36年〕卒,文芸協会演劇研究所(第1期生)〔明治44年〕卒

経歴
16歳の時上京し戸板裁縫女学校に入学。明治36年卒業後、千葉の割烹旅館に嫁ぐが半年で不縁となり東京に戻る。41年東京俳優学校講師・前沢誠助と再婚。夫の勧めで42年坪内逍遙の文芸協会演劇研究所の第1期研究生となり、44年帝劇の「ハムレット」のオフィリアで初舞台。次いで「人形の家」のノラで大好評を博したが、前沢とは離婚。その後、27歳のとき、文芸協会の事実上の指導者だった42歳の大学教授・島村抱月と恋に落ち、そのロマンスは広く知れわたった。このため文芸協会を退会した2人は、大正2年須磨子を座頭に新たに芸術座を旗揚げした。翌3年に帝劇で演じた「復活」が主題歌「カチューシャの唄」(島村抱月・相馬御風作詩 中山晋平作曲)の大ヒットで全国的な人気を呼び、一座朝鮮、台湾、満州にまで巡業する。そして公演ごとに劇中歌を加えたところ、「命短かし恋せよ乙女」「行こか戻ろかオーロラの下を」などがヒット。「モンナ・ヴァンナ」「サロメ」「死とその前後」の上演などで一座は好調を続けたが、7年11月抱月がスペイン風邪で急死すると、「カルメン」出演中の2ヶ月後の命日後追い自殺した。

没年月日
大正8年 1月5日 (1919年)

伝記
火の女恋の哀史 須磨子の一生松井須磨子―女優の愛と死 福田 清人 著秋田 雨雀,仲木 貞一 著戸板 康二 著(発行元 勉誠出版大空社文芸春秋 ’09’99’86発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「松井 須磨子」の解説

松井 須磨子
マツイ スマコ

明治・大正期の女優



生年
明治19(1886)年3月8日(戸籍=11月1日)

没年
大正8(1919)年1月5日

出生地
長野県埴科郡清野村(現・松代市)

本名
小林 正子

学歴〔年〕
戸板裁縫女学校〔明治36年〕卒,文芸協会演劇研究所(第1期生)〔明治44年〕卒

経歴
16歳の時上京し戸板裁縫女学校に入学。明治36年卒業後、千葉の割烹旅館に嫁ぐが半年で不縁となり東京に戻る。41年東京俳優学校講師・前沢誠助と再婚。夫の勧めで42年坪内逍遙の文芸協会演劇研究所の第1期研究生となり、44年帝劇の「ハムレット」のオフィリアで初舞台。次いで「人形の家」のノラで大好評を博したが、前沢とは離婚。その後、27歳のとき、文芸協会の事実上の指導者だった42歳の大学教授・島村抱月と恋に落ち、そのロマンスは広く知れわたった。このため文芸協会を退会した2人は、大正2年須磨子を座頭に新たに芸術座を旗上げした。翌3年に帝劇で演じた「復活」が主題歌「カチューシャの唄」(島村抱月・相馬御風作詩 中山晋平作曲)の大ヒットで全国的な人気を呼び、一座は朝鮮、台湾、満州にまで巡業する。そして公演ごとに劇中歌を加えたところ、「命短かし恋せよ乙女」「行こか戻ろかオーロラの下を」などがヒット。「モンナ・ヴァンナ」「サロメ」「死とその前後」の上演などで一座は好調を続けたが、7年11月抱月がスペイン風邪で急死すると、「カルメン」出演中の2ケ月後の命日に後追い自殺した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

367日誕生日大事典 「松井 須磨子」の解説

松井 須磨子 (まつい すまこ)

生年月日:1886年7月20日
明治時代;大正時代の女優
1919年没

松井 須磨子 (まつい すまこ)

生年月日:1886年3月8日
明治時代;大正時代の女優
1919年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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