松原市(読み)マツバラシ

デジタル大辞泉 「松原市」の意味・読み・例文・類語

まつばら‐し【松原市】

松原

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日本歴史地名大系 「松原市」の解説

松原市
まつばらし

面積:一六・五八平方キロ

大阪平野の中央部に位置し、北は大阪市、東は羽曳野はびきの市・藤井寺市・八尾やお市、南は南河内郡美原みはら町、西は堺市に接する。東の羽曳野丘陵と西の上町うえまち台地に挟まれた、南高北低の緩やかな傾斜のあるほぼ平坦な地域である。標高八―四〇メートルで、市域の六割は二〇メートル以下の平坦な地形である。狭山さやま(現南河内郡狭山町)より流出する東除ひがしよけ川が市域東部を北流し、同じく西除川(部分的に天道川・布忍川とよぶ)も市域西部をほぼ北流して高木たかぎ橋の北で北西に向かう。市域北部には、宝永元年(一七〇四)に付替え工事が行われた大和川が西流する。第二次世界大戦以前は農業地域で、水稲や野菜の栽培が行われていた。灌漑用水は西除川からの用水や、同川や狭山池中樋なかひ筋用水路の水をためた多数の溜池(かつては一〇〇以上、現在は約五〇)の池水、さらに井戸水によっていた。市名は近世―近代を通じ当地辺りの中心であった松原村・松原町による。

〔原始・古代〕

大和川北岸にある弥生時代の大規模な集落遺跡の瓜破うりわり遺跡(平野区)と関連がある遺跡や遺物は、市域からは発見されていない。しかし石器・弥生式土器・土師器須恵器の破片は各地に散布している。樋野ひのヶ池の小島の斜面からは古墳時代後期の須恵器の窯跡(樋野ヶ池窯跡)が発見され、河内・和泉国境の須恵器生産地帯の北限と考えられる。現存する古墳は二基。陵墓参考地に指定されている大塚山おおつかやま古墳は東半分が羽曳野市に属する。このほか一津屋ひとつや町に長径三六メートルの前方後円墳(一津屋古墳)がある。「古事記」反正天皇の段に多治比の柴垣たじひのしばがき宮で天下を治めたと記され、「日本書紀」反正天皇元年一〇月条では河内の丹比たじひに都し、これを柴籬しばがき宮といったとある。柴籬(垣)宮は現在の柴籬神社の地にあったと伝えるが確証はなく、発掘によっても何も発見されなかった。市域は古代の丹比郡に属し、「和名抄」の同郡一一郷のうち、依羅よさみ三宅みやけ田邑たむら丹下たんげ土師はにしの五郷が全域あるいは一部、市域にあったと考えられている(土師郷については異説もある)。「日本書紀」仁徳天皇四三年条にみえる依網よさみ屯倉は、依羅郷・三宅郷と、摂津国住吉郡大羅おおよさみ郷を含む地域と推定される(住吉区の→依網屯倉。「延喜式」神名帳所載の神社のうち「酒屋サカヤノ神社」「田坐タイノ神社」が市域内に所在。古代に建立された寺院には永興ようこう寺があった。

市域を南北に通る中高野街道は、杭全くまた神社(現平野区)の西の泥堂でいどう(現同上)にあった一里塚を起点に南行、三宅村の中央を通り阿保茶屋あおぢやや長尾街道と交差、上田うえだ村・新堂しんどう村の西を通って丹南たんなん村の東から黒山くろやま(現南河内郡美原町)方面に向かう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「松原市」の意味・わかりやすい解説

松原〔市〕
まつばら

大阪府中南部,大和川左岸の市。 1955年松原,天美 (あまみ) の2町と三宅,恵我 (えが) ,布忍 (ぬのせ) の3村が合体して市制。市域は狭山古扇状地の末端部を占め,中心市街地の松原は,長尾街道,竹ノ内街道,中高野街道の交差点に位置。ため池が多く,米作のほか野菜中心の近郊農業が盛んであった。 1923年,近畿日本鉄道南大阪線が通じてから宅地化が進み,現在は大阪市の住宅衛星都市。衣服,敷物,金網,真珠核,印材 (水牛,象牙) の家内工業的工場が多い。大塚山古墳,柴籬 (しばがき) 神社など史跡に富む。市域北東の松原ジャンクションにより近畿自動車道から西名阪自動車道,阪和自動車道を分岐。中央部を国道 309号線が縦貫する。面積 16.66km2。人口 11万7641(2020)。

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