板垣 退助(読み)イタガキ タイスケ

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「板垣 退助」の解説

板垣 退助
イタガキ タイスケ


肩書
自由党総裁,内相

旧名・旧姓
別名=乾 退助(イヌイ タイスケ)

別名
幼名=猪之助 諱=正形 号=無形

生年月日
天保8年4月17日(1837年)

出生地
土佐国高知城下中島町(高知県高知市)

経歴
土佐藩士の出身。山内容堂の側用人、大監察などを歴任。慶応元年江戸で学び、3年中岡慎太郎と共に西郷隆盛と会見、討幕の密約を結ぶ。明治元年戊辰戦争で大隊司令・総督府参謀として会津攻略に活躍。この頃乾姓から先祖の旧姓板垣に復す。土佐藩大参事を経て、4年明治政府の参議となるが、6年征韓論争に敗れて下野。7年後藤象二郎、江藤新平らと東京で愛国公党を結成し、副島種臣らと「民撰議院設立建白書」を提出。また高知で立志社を設立して自由民権運動口火を切る。14年国会開設が決まると自由党を結成し、その総理となる。15年外遊。17年自由党解党。20年伯爵(一代限り)。23年国会開催に伴い再び愛国公党を組織し、立憲自由党に合流、24年自由党に改組し総裁に就任。29年には第2次伊藤内閣の内相をつとめた。31年自由党・改進党が合流して憲政党を組織すると、大隈重信と隈板内閣(第1次大隈内閣)をつくり、内相に就任。33年憲政党を解散立憲政友会に合流し、これを機に政界から引退した。晩年社会事業などに尽力した。15年に岐阜暴漢に襲われた際(岐阜遭難事件)の発言「板垣死するとも自由は死せず」は、民権運動の標語になった。著書に「武士道観」「板垣退助全集」がある。

没年月日
大正8年7月16日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

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