林忠英(読み)はやし・だだふさ

朝日日本歴史人物事典 「林忠英」の解説

林忠英

没年弘化2.5.8(1845.6.12)
生年:明和2.4(1765)
江戸後期の若年寄天明7(1787)年8月,将軍徳川家斉小姓になる。以後家斉側近として重用され,文化1(1804)年3月御側御用取次,文政8(1825)年4月勝手掛若年寄。それまでにも度々加増されていたが,このとき1万石となり,上総国貝淵(千葉県木更津市)に陣屋が設けられる。天保8(1837)年4月の家斉隠居後も権勢を振るい,幕政改革を志向する勝手掛老中水野忠邦と対立するが,同12年閏1月の家斉の死に伴う水野粛正により,同4月罷免。水野による天保改革の実施を妨げた「三佞人」のひとりとして知られるが,文政・天保期の幕府財政に重要な役割を果たした人物でもあった。<参考文献>北島正元『水野忠邦』

(安藤優一郎)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「林忠英」の解説

林忠英 はやし-ただふさ

1765-1845 江戸時代後期の大名
明和2年4月29日生まれ。徳川家斉(いえなり)の側衆(そばしゅう)から文政8年(1825)若年寄に昇進し,上総(かずさ)(千葉県)貝淵藩主林家初代となる。1万石。江戸城修築の功などで計8000石の加増をうけたが,天保(てんぽう)12年家斉の死去とともに免職,加増地を没収された。弘化(こうか)2年5月8日死去。81歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の林忠英の言及

【中野碩翁】より

…江戸後期の旗本。11代将軍徳川家斉の寵臣。名は定之助清茂。清備(きよとも)の子。1803年(享和3)叙爵して播磨守と称する。中野家はもと紀伊徳川家の臣で,祖父清房のとき,吉宗の将軍家相続に従って幕臣となり,叔母初崎は大奥に出仕して老女を務め,のち10代将軍家治の世嗣家基の乳母となった。碩翁は1765年(明和2)遺跡を継いで小普請に入り(廩米(りんまい)300俵),83年(天明3)出仕し小納戸となった。…

※「林忠英」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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