栄西(読み)えいさい

精選版 日本国語大辞典 「栄西」の意味・読み・例文・類語

えいさい【栄西】

鎌倉初期の僧。日本臨済宗の開祖。備中の人。字(あざな)は明庵。通称千光国師。比叡山で台密を修め、二度宋に渡り天台山で禅を学ぶ。博多に聖福寺、鎌倉に寿福寺、京都に建仁寺を開き、禅宗の布教につとめた。また、宋から茶の種を移入、栽培。主著「興禅護国論」「喫茶養生記」など。「ようさい」ともいう。保延七~建保三年(一一四一‐一二一五

ようさい ヤウサイ【栄西】

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デジタル大辞泉 「栄西」の意味・読み・例文・類語

えいさい【栄西】

[1141~1215]平安末・鎌倉初期の僧。備中びっちゅうの人。あざなは明庵。日本臨済宗の祖。はじめ比叡山で天台密教を学んだ。二度そうに渡ってを学び、帰国後、博多に聖福寺、京都に建仁寺、鎌倉に寿福寺を建立。また、宋から茶の種を持ち帰り、栽培法を広めた。著「興禅護国論」「喫茶養生記」など。千光国師。葉上房。ようさい。

ようさい〔ヤウサイ〕【栄西】

えいさい(栄西)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「栄西」の意味・わかりやすい解説

栄西
えいさい
(1141―1215)

鎌倉時代の僧。日本臨済(りんざい)宗の開祖とされる。台密(たいみつ)(天台密教)葉上(ようじょう)流の祖。「ようさい」ともいう。葉上房(ようじょうぼう)、千光(せんこう)国師、智金剛と称し、禅宗の字(あざな)は明庵(みょうあん)。

[多賀宗隼 2017年5月19日]

生涯・業績

備中(びっちゅう)(岡山県)の吉備津(きびつ)神社の神職賀陽(かや)氏の出身。保延(ほうえん)7年4月20日(一説に25日)生まれる。1151年(仁平1)仏道を志して比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)に入り密教を学んだ。1162年(応保2)いったん帰郷して修行したのち、ふたたび叡山に入って灌頂(かんじょう)を受けた。この間、静心(じょうしん)(?―1157)、千命(せんめい)、有弁(ゆうべん)、基好(きこう)、顕意(けんい)に師事した。早くから日本の仏法の興隆を深く願ったが、とくに大陸仏法の学習に期待して入宋求法(にっそうぐほう)の志を抱き、1167年(仁安2)27歳にして九州に赴き、翌1168年渡宋した。この行については平頼盛(たいらのよりもり)の外護(げご)があったとも伝えられる。宋において、栄西は初め天台山、阿育王(あいくおう)山などに学び、また禅の要旨を問い、滞在6か月に及んで同年帰国したが、その間に俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)と面識を得た。帰朝後、叡山に大陸から将来した章疏(しょうそ)を納め、ついで故郷方面で6年間巡錫(じゅんしゃく)した。1175年(安元1)ころ、ふたたび九州に赴き、筑前(ちくぜん)(福岡県)今津の誓願寺(せいがんじ)などに滞在すること10年に及んだ。この間、大陸に求めた一切経(いっさいきょう)の到来を待ちつつ、密教と禅の研究に努めた。とくに、天台密教を大成した安然(あんねん)に注目していることがこのころ成った約10部の著述に示されている。1187年(文治3)47歳で第2回目の入宋を実現した。このときは仏跡巡礼を志したが宋の朝廷に許されず、瑞安(ずいあん)を経て天台山に入り、万年寺で虚庵懐敞(こあんえしょう)(生没年不詳)に師事し、師に随(したが)って天童山に移って臨済宗黄龍派(おうりゅうは)の禅を受けた。日本の入宋僧のなかで直接にこの派を受けたのは栄西のみである。またこのとき、栄西は懐敞に密教を伝えたという。

 1191年(建久2)に帰国し、肥前(ひぜん)(長崎県)平戸を経て九州各地に弘法(ぐほう)し、禅寺の建立、禅規興行、経論の書写などに努めた。そのおり、宋よりもたらした茶種を筑前、肥前の境にある脊振山(せふりやま)に植えたが、それが日本の茶の栽培、普及の発祥地とされている。1194年(建久5)布教のために上京、『興禅護国論(こうぜんごこくろん)』の起稿はこの途上のこととの説もある。このころ、都ではすでに覚阿(かくあ)、大日能忍(だいにちのうにん)らが「達磨宗(だるましゅう)」を説いて禅を鼓吹しており、その新奇の教えが世人の視聴をそばだてていたが、叡山の衆徒はその布教に妨害を加えた。栄西の教えもこれとともに叡山の圧迫を受け、停止(ちょうじ)の宣旨(せんじ)が出されたため、栄西はいったん九州に下向した。博多(はかた)に安国山聖福寺(しょうふくじ)を建てたのはこのときであるが、これはのちに建立された京都の建仁寺(けんにんじ)、鎌倉の寿福寺(じゅふくじ)とともに、栄西が今日に残した禅宗の大伽藍(がらん)である。同年ふたたび上洛(じょうらく)したが、世人の誤解と旧勢力の圧力とに対する覚悟と準備を新たにしている。新たに著した『興禅護国論』の所論の一半でも叡山の攻撃に備えており、栄西の禅が最澄(さいちょう)所伝の禅の伝統を今日に生かすものであることを述べている。しかし、これと並行して彼は朝廷内部に了解と支持とを求めた跡がみられる。1198年(建久9)『興禅護国論』を著した栄西は、無用の摩擦を避けて、翌1199年、一時、都を去って鎌倉に布教の新天地を求めた。入宋の経歴をもつ京下りの栄西は、たちまち将軍、幕府の歓迎を受けて祈祷(きとう)を依嘱(いしょく)され、1202年(建仁2)には北条政子(ほうじょうまさこ)は栄西のために寿福寺を建てて住持せしめた。ここに至ってふたたび上京し、将軍源頼家(みなもとのよりいえ)の外護のもとに建仁寺を建てた。朝廷もまたこれを官寺に列したと伝える。栄西が建仁寺を真言(しんごん)、止観(しかん)、禅の三教の道場としたのは、旧勢力との調和を意図したものと思われるが、ここに臨済宗は京都と鎌倉を強固な地盤として日本の新しい一大宗派として発足し、栄西は62歳にして日本の仏教史に新時代を画する業績をなしたのである。

 以後、栄西は晩年の10余年間、京都、鎌倉で大寺を監督する長老として、幅広い社会的活動に実際的手腕を発揮し、同時にその体験と思索とを円成(えんじょう)して発表し、世人、子孫に益する思想的活動をなした。当時、公武朝野の努力を結集した国家的大事業として南都復興が進行中であった。このころまで十数年にわたって造東大寺勧進職(ぞうとうだいじかんじんしき)として尽力してきた俊乗房重源が1206年(建永1)寂したとき、朝廷は栄西をその後任とした。栄西の活動と業績は堂舎門廊の造営にその一端がなお伝えられているが、さらに、今日に残る数少ない栄西の自筆書状のなかに、当年の活動ぶりを示すもののあることが注目される。また朝命を受けて、雷火で焼けた京都の法勝寺(ほっしょうじ)九重塔を復興したのもこのころであった。朝廷は栄西を法印(ほういん)、権僧正(ごんのそうじょう)に叙任して功に報いているが、その後、栄西の側から大師号を要請したと伝えられている。なおこのころ、京都のみならず鎌倉でも活動している。ことに将軍源実朝(さねとも)の知遇を得て、2人の間にはしばしば法談も交わされた。栄西の最後の著『喫茶養生記(きっさようじょうき)』はその法談を動機として編述されたのである。彼は建保(けんぽう)3年6月(あるいは7月)5日75歳で寂したが、その入寂の地に関しては京都、鎌倉の二つの伝承があり、そのいずれが事実であるかは、今日なお論じられるところである。

[多賀宗隼 2017年5月19日]

思想

栄西は台密信仰をもって一生を貫き、東密思想を加えた一派を創して葉上流の祖とされる。禅を説いた著は58歳のときの『興禅護国論』のみであるが、ここでは戒律を禅の基礎と説くところに特色がある。この思想は、戒の実践を日常生活のなかに説いた著『出家大綱(しゅっけたいこう)』に具体化され、他方、『斉戒勧進文(さいかいかんじんもん)』『円頓三聚一心戒(えんどんさんじゅいっしんかい)』などもっぱら戒を説いた書が栄西の著と伝えられている。一方、64歳の著『日本仏法中興願文』にも、仏法興隆の宿志を訴えるとともに、持戒衰退の世相を嘆(なげ)いている。弟子に栄朝(1165―1247)、行勇があり、彼らによって天台、禅の兼修の宗風が関東に伝わった。建仁寺には明全(みょうぜん)(1184―1225)、道元(どうげん)があり、衣鉢(えはつ)を嗣(つ)いだ。道元の『正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)』が栄西の高風清節を伝えていることは周知されているが、栄西と道元とが相まみえたか否かは疑問視されている。

[多賀宗隼 2017年5月19日]

『木宮泰彦著『栄西禅師』(1916・丙午出版社/1977・国書刊行会)』『多賀宗隼著『栄西』(1965/新装版・1986・吉川弘文館)』


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改訂新版 世界大百科事典 「栄西」の意味・わかりやすい解説

栄西 (えいさい)
生没年:1141-1215(永治1-建保3)

〈ようさい〉とも読む。鎌倉初期に臨済宗を伝えた禅密兼修の僧侶。道号は明庵(みようあん)/(みんなん)。葉上房(ようじようぼう),千光法師ともいう。備中国吉備津神社の神官賀陽(かや)氏の出身。8歳から父に仏典学習の手ほどきをうけ,11歳で付近の安養寺の静心に師事した。比叡山で受戒したのは14歳。静心の死後,密教を千命に,天台教学を有弁に学んだ。21~22歳ころ比叡山を離れ,備前国日応山など山林・霊場で密教的苦行を重ね,その後,伯耆国大山寺の基好や比叡山の顕意より台密穴太流の灌頂(かんぢよう)をうけた。基好は,慈円に招かれ簑笠の風体で上洛し,卑賤扱いされるやにわかに退出したという,気骨ある地方密教僧で,栄西の密教事相は多く基好に拠った。28歳,1168年(仁安3)4月博多より日宋貿易の商船に乗じて入宋。明州で俊乗房重源に出会い,天台山では羅漢信仰の,阿育王山では舎利信仰の奇瑞を体験して,いわば山林抖擻(とそう)の行を宋地にまで延長,9月に帰国した。このとき30余部60巻の天台の新章疏をもたらし天台座主明雲に呈している。帰朝後は備前,備中方面の日応山,金山寺など山岳寺院を拠点とし,とくに金山寺には山内の一画に遍照院を建立して一山の復興に貢献した。75年(安元1)筑前国の貿易港今津に創建された誓願寺に招かれ,落慶供養の阿闍梨(あじやり)をつとめ,その後宋版一切経の購入をめざしてこの寺に住し,法華一品経書写の勧進も行っている。誓願寺大檀越の寛智と仲原氏太娘は,この地仁和寺領怡土庄の荘官級の富豪であった。この前後栄西には密教の著作が多く,すでにその面で一家をなしていた。

 ところが47歳,87年(文治3)4月再び入宋を敢行。インド仏跡を参拝する大計画は,臨安における南宋政府の認可がなく挫折したが,帰途の船の漂着をきっかけに再び天台山万年寺を訪れ,虚庵懐敞(こあんえじよう)に参じた。さらに懐敞が天童山景徳寺に移るとそのまま従い,50歳で禅の悟りを体験,臨済宗黄竜(おうりよう)派の印可を受けて,91年(建久2)7月帰朝した。当初から懐敞は日本の密教に大きな関心を示すなど栄西に好意的で,栄西もまたおそらくインド行の旅費であった莫大な資をはたいて,天台山の諸堂の整備に尽くした。天童山にも千仏閣修営のため日本特産の巨材を送る約束をして帰朝後これを果たし,98年には宋の詩人楼鑰(ろうやく)がこの功績を顕彰する《千仏閣記》を草している。第2回入宋後,栄西は筑前国香椎宮の側に建久報恩寺,博多に聖福寺などを創立,禅の体現者として北九州方面に活躍した。

 これに反感を抱いた筥崎の良弁や比叡山の意向をうけ,朝廷は94年達磨宗停止の宣旨を下し,大日房能忍のそれと合わせて栄西の禅宗を禁じている。これに対する反論と主張は98年《興禅護国論》にまとめられた。栄西は,禅宗が末法の時代にこそふさわしく,鎮護国家にいかに有用かを説き,比叡山における禅の先蹤を明らかにして巧みにその非難をかわし,朝廷はこの禅宗の弘通を勅許すべきだと論じている。栄西の禅宗にとっては戒律の実践が表看板であった。南宋禅林での経験と率直な反省を踏まえ,再度入宋の前後で栄西の戒律観は大きく変わった。それだけに戒律軽視の禅(能忍らしい)を強く批判し,自分の禅と峻別する。また諸職人や農民の苦しい家業とその歴史的進歩をたたえ,これに対比して出家の持戒を督励しているのが注目される。99年(正治1)鎌倉に下向,北条政子と2代将軍源頼家の帰依をうけ,翌年寿福寺に請ぜられて開山となった。《吾妻鏡》はもっぱら密教祈禱僧としての活動を記録しているが,1202年(建仁2)頼家の寺地施入により京都に建仁寺を開創,また頼家の申請で朝廷はここに真言・止観・禅の三宗を置く宣旨を下した。かくて禅宗勅許の目標は一応達成され,京都・鎌倉を往復する栄西の活躍が始まった。04年(元久1)密教の門弟と道心者に斎戒実践の署名を募り,この勢力を誇示しながら,戒律実践を軸に日本仏法の中興を主唱する願文を草し,暗に建仁寺に対する朝廷のいっそうの保護を要請,翌年同寺は官寺となった。06年(建永1)重源の後継者として東大寺大勧進職に任命されて大いに手腕をふるい,09年(承元3)には法勝寺九重塔再建をつかさどって13年(建保1)その完成の功により権僧正になった。しかしこの昇進と生前の大師号を望んだことは貴族や慈円ら貴族僧の非難の的になった。15年75歳で示寂。6月5日鎌倉寿福寺においてとも,7月5日京都建仁寺においてともいう。

 禅・密あわせておもな門弟に栄朝・行勇・明全,その各門下に円爾・覚心・道元が出た。栄西に発する台密の一派は葉上流という。鎌倉後期の禅宗界ではもっぱら日本禅宗の始祖とされるに至った。しかし遁世聖・勧進聖を共通母胎としながら,専修念仏と対蹠的な方向を打ち出した意義が大きい。また宋代生活文化の紹介者であって,とくに茶種の将来と著書《喫茶養生記》により茶祖ともいわれる。上述のほか,主著は《出纏大綱》《菩提心論口決》《出家大綱》など。筆跡としては《誓願寺盂蘭盆一品経縁起》などが現存する。
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百科事典マイペディア 「栄西」の意味・わかりやすい解説

栄西【えいさい】

〈ようさい〉ともいう。日本臨済宗の開祖。備中(びっちゅう)の人。19歳で比叡山に入り,天台と密教を修行。のち2度入宋,1191年帰朝して博多に聖福(しょうふく)寺(日本最初の禅寺)を建立し,天台宗徒の論難にあいつつ,鎌倉に寿福(じゅふく)寺,京都に建仁(けんにん)寺を建てた。栄西に発する台密(たいみつ)の一派は葉上(ようじょう)流といわれ,また茶種の将来などによって茶祖とも称される。著書《興禅護国論》《喫茶養生記》。→臨済宗
→関連項目鎌倉仏教感応寺建仁寺寿福寺聖福寺禅宗茶道天台宗天童山道元仏教ボダイジュ(菩提樹)明恵

栄西【ようさい】

栄西(えいさい)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「栄西」の意味・わかりやすい解説

栄西
えいさい

[生]保延7(1141).4.20. 備中,吉備津
[没]建保3(1215).6.5. 鎌倉
日本臨済宗の開祖。号を葉上房,字を明庵という。初め比叡山に登り天台の教学を修めたがあきたらず,仁安2 (1167) 年伯耆大山の基好のもとで勉学中唐本『法華経』に接して入宋の決意を固め,翌年4月入宋。天台山,阿育王山を歴訪し,禅に対する理解と興味を示し,中国天台宗に関する注釈書などを持って帰朝。以後天台の復興に禅の必要性を痛感し,文治3 (87) 年再び入宋。天台山で臨済禅を学び建久2 (91) 年帰国。筑前誓願寺において布教活動を始め,正治1 (99) 年鎌倉に入り,のちに将軍頼家の帰依を受け寿福寺を創立,建仁2 (1202) 年京都建仁寺を造立し,以後京都,鎌倉の間を往復して禅の弘通に努めた。建永1 (06) 年東大寺の重源のあとをうけて東大寺大仏の再建に尽力した。治承2 (1178) 年の筑前誓願寺の『誓願寺盂蘭盆一品経縁起』は栄西の遺品として名高く,その書風は宋風様式を示している。また茶の種子を宋から持帰り,日本に喫茶の習慣を広めた。著書に『興禅護国論』『一代経論釈』『喫茶養生記』などがある。弟子に釈円栄朝 (しゃくえんえいちょう) ,退耕行勇 (たいこうぎょうゆう) らが輩出した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「栄西」の解説

栄西
えいさい

1141.4.20~1215.6/7.5

「ようさい」とも。鎌倉前期の臨済宗黄竜派の僧。道号は明庵(みょうあん),法諱は栄西。千光法師・葉上房ともいう。備中国賀陽(かや)氏の出身。11歳で仏門に入り,14歳のとき比叡山で受戒。以後,天台教学を修学する。1168年(仁安3)入宋,途中,俊乗房重源(ちょうげん)にあい,ともに天台山万年寺で羅漢に茶を供養。禅を学んで帰国後,天台復興のため禅の必要を感じ,87年(文治3)再び入宋。天台山万年寺の虚庵懐敞(えしょう)から臨済禅を学び,その法脈を得て91年(建久2)に帰国。禅の布教を始めたが,能忍(のうにん)の無嗣承の禅と混同され布教を停止された。比叡山衆徒による弾圧に対し「興禅護国論」を著す。99年(正治元)鎌倉で北条政子の帰依をうけ,寿福寺を建立。1202年(建仁2)将軍源頼家の庇護をうけて京都に台(天台)・密(真言)・禅の三宗一致の建仁寺を建立。06年(建永元)重源の跡をついで東大寺大勧進職となり復興に尽くした。14年(建保2)将軍源実朝の病気平癒のため祈祷を行い,「喫茶養生記」を献じた。ほかに「出家大綱」など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「栄西」の解説

栄西
えいさい

1141〜1215
鎌倉時代の禅僧。臨済宗の開祖
「ようさい」とも読む。備中(岡山県)の人。初め比叡山で天台宗を修め,1168年・'87年の2度の入宋により臨済禅を学び,'91年帰国後,博多に聖福寺を開いた。のち幕府の帰依をうけ,鎌倉に寿福寺,京都に建仁寺を建立し,『興禅護国論』を著した。旧仏教諸宗の圧迫を避けるため建仁寺は延暦寺の末寺,台密禅の道場とした。また宋より茶種を伝え,『喫茶養生記』を著した。

栄西
ようさい

えいさい

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「栄西」の解説

栄西 えいさい

明庵栄西(みょうあん-えいさい)

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367日誕生日大事典 「栄西」の解説

栄西 (えいさい)

生年月日:1141年4月20日
平安時代後期;鎌倉時代前期の臨済宗の僧
1215年没

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世界大百科事典(旧版)内の栄西の言及

【栄西】より

…21~22歳ころ比叡山を離れ,備前国日応山など山林・霊場で密教的苦行を重ね,その後,伯耆国大山寺の基好や比叡山の顕意より台密穴太流の灌頂(かんぢよう)をうけた。基好は,慈円に招かれ簑笠の風体で上洛し,卑賤扱いされるやにわかに退出したという,気骨ある地方密教僧で,栄西の密教事相は多く基好に拠った。28歳,1168年(仁安3)4月博多より日宋貿易の商船に乗じて入宋。…

【医学】より

…8世紀以前のそれは公卿風であったが,以後僧服僧体のものが多くなる。鎌倉時代に有名であった栄西,梶原性全(かじわらしようぜん)はいずれも僧医である。栄西は中国から禅宗をもたらしたが,同時に健康保命のために茶の飲用をすすめたことでも有名である。…

【今津】より

…とくに日宋貿易が盛んになった平安末期以降は宋船が頻繁に着岸した。1175年(安元1)宋から帰国した栄西は今津誓願寺に滞在しており,さらに源平争乱のさなか誓願寺に下向止宿して宋からの一切経の到着を待った。また1271年(文永8)9月モンゴルの使者趙良弼が今津に到着した。…

【喫茶養生記】より

…日本へ臨済宗を伝えた栄西が,喫茶と喫桑の薬効を説き勧めた書。そのため室町時代には一時《茶桑経》とよばれたこともあった。…

【建仁寺】より

…京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の本山。開山は明庵栄西。栄西は宋より帰国すると,博多聖福寺,鎌倉寿福寺を拠点として禅法を挙揚(こよう)したが,彼の念願は,王城の地たる京都への進出であった。…

【興禅護国論】より

栄西の主著。1198年(建久9)成立。…

【聖福寺】より

…山号は安国山。1195年(建久6)博多百堂(宋人の建立)の跡地に源頼朝を開基檀越(だんおつ),明庵栄西を開山として創建された(一説には1204年(元久1)創建)。鎌倉時代末には諸山,南北朝時代の初めにはすでに十刹に列せられている。…

【声明】より

… 鎌倉期に興った浄土宗,浄土真宗,日蓮宗などは教義的には天台宗の流れをくむものであり,仏教儀式や声明もそれを基盤としつつ,それぞれ独自に展開していった。また臨済宗,曹洞宗を開いた栄西(えいさい)と道元はほかの鎌倉仏教の開祖と同様に一時比叡山に学んでいるが,中国に渡り宋代の禅宗を伝え,その後臨済,曹洞両宗は天台,真言両声明の影響をうけつつ中国的な性格を含んだ仏教儀式を整えていく。江戸初期には明僧隠元が中国臨済宗の系統に属する黄檗(おうばく)宗を開き,同時に中国明代の儀式や声明(梵唄と称す)がもたらされて,現在でもなお中国的色彩の濃厚な儀式,音楽が行われている。…

【周防国】より

…重源は国府北東の牟礼山山麓に阿弥陀寺を建立し,その住持は大勧進が兼ね在庁官人諸氏をその檀越とし,在庁官人結合の精神的紐帯たらしめることとした。 重源没後は栄西(えいさい)が大勧進となったが,1209年(承元3)周防国は法勝寺九重塔婆造営料国にあてられ,栄西はそのまま周防を管した。その後同国は感神院造営料国を経て31年(寛喜3)東大寺造営料国に復し,大勧進行勇が国務を管理することとなり,以後大勧進の派遣する目代・小目代等が,在庁官人を指揮して実務にあたる体制がつづいた。…

【禅宗】より

…日本の禅宗は,それらをあわせて受容するのであり,独自の近世禅文化を開くこととなる。 日本の臨済宗は,鎌倉時代の初めに明庵栄西が入宋して,五家七宗のうちの黄竜宗を伝え,《興禅護国論》を著して,旧仏教との調和をはかりつつ,鎌倉幕府の帰依で京都に建仁寺を開くのに始まり,同じく鎌倉幕府が招いた蘭渓道隆や無学祖元などの来朝僧と,藤原氏の帰依で京都に東福寺をひらく弁円や,これにつぐ南浦紹明(なんぽしようみよう)(1235‐1308)などの入宋僧の活動によって,短期間に鎌倉と京都に定着し,やがて室町より江戸時代にその後継者が,各地大名の帰依で全国に広がるものの,先にいう四十八伝二十四流の大半が,栄西と道元その他の少数を除いてすべて臨済宗楊岐派に属する。臨済禅は,唐末の禅僧,臨済義玄(?‐866)を宗祖とし,その言行を集める《臨済録》をよりどころとするが,日本臨済禅はむしろ宋代の楊岐派による再編のあとをうけ,とくに公案とよばれる禅問答の参究を修行方法とするので,おのずから中国の文学や風俗習慣に親しむ傾向にあり,これが日本独自の禅文化を生むことになり,五山文学とよばれるはばひろい中国学や,禅院の建築,庭園の造型をはじめ,水墨,絵画,墨跡,工芸の生産のほか,それらを使用する日常生活の特殊な儀礼を生む。…

【チャ(茶)】より

…嵯峨天皇は815年6月に畿内近国にチャの栽培を命じ,また,時期は不明ながら,平安宮の東北隅に茶園が設けられ,内蔵寮薬殿が製茶を行った。しかし,その茶は一部の儀式や行事に用いられただけで,日常的に飲用されるまでにはならず,鎌倉初期に栄西が再び中国から茶をもたらすまで茶の飲用は中絶に近い状態だったようである。 栄西は1191年(建久2)7月,再度の渡宋から帰朝したが,その際,当時の中国にひろまっていた新しい抹茶の茶法とともに茶種を将来したとされる。…

【茶道】より

…当時の漢詩文化にあこがれる知識人のなかに喫茶が行われたのは確かである。しかし,やがて国風文化の時代を迎えると茶の飲用はほとんど失われ,鎌倉時代初期に栄西が再び中国から茶をもたらすまで中絶していた。 栄西は1168年(仁安3),87年(文治3)の2度にわたって中国へ渡り,禅宗とともに宋代の新しい飲茶の文化をもたらした。…

【天童寺】より

…寺伝では,西晋時代の創建で,唐代に再興されるが,宋代に孝宗が太白名山の勅額を贈り,景徳寺と称し,明代に天童寺といい,現在は天童弘法寺と称する。宏智正覚がここに住してからにわかに盛大となり,虚菴懐敞のときに,栄西が入宋して,その法を伝えるとともに千仏閣を重建する。ついで長翁如浄のとき,明全と道元が入宋伝法している。…

【仏教】より

… 鎌倉新仏教のうち,残る禅宗は宋からもたらされた。臨済禅は1191年(建久2)帰国した栄西が,曹洞禅は1227年(安貞1)道元が伝えた。本来の禅は来世の概念がなく,不立文字(ふりゆうもんじ)を旨とし,坐禅や公案(こうあん)を中心として自力による悟りを自己の心中に形成することを目的とした。…

【留学】より

…【吉田 孝】
[中世]
 12世紀,平清盛によって大陸との交渉が再び盛んになり,南宋の新しい文物が次々に伝わってくるようになると,大陸仏教界から新風をもとめてこようという気運が,日本の仏教界のなかに急に芽ばえてきた。こうして12世紀後半以降,1167年(仁安2)から2年間留学した重源(ちようげん),68年から半年間と87年(文治3)から5年間再留学した栄西(えいさい),1171年(承安1)から5年間留学した覚阿,99年(正治1)から13年間留学した俊芿(しゆんじよう),1214年(建保2)から15年間留学した法忍などをはじめとして,各宗派の僧侶たちが相次いで南宋に留学するようになった。このように,彼らは最初は天台宗や律宗など自分たちの宗旨を学んでくるのが第一の目的であった。…

【臨済宗】より

…特に大慧宗杲(だいえそうこう)は公案による参禅工夫の禅風を完成し,虎丘紹隆(くきゆうじようりゆう)の門流密庵咸傑(みつたんかんけつ)は,松源崇岳(しようげんすうがく),破庵祖先(ほあんそせん)など多数の逸材を養成し,松源派,破庵派などの大門派を形成し,楊岐派の基礎を固めた。 日本に初めて本格的な臨済禅をもたらした栄西は,虚庵懐敞(こあんえじよう)に嗣法して黄竜派の臨済禅をもち帰った。しかし,円爾弁円(えんにべんえん)(弁円)などその後の入宋僧の多くは,破庵派の無準師範(ぶしゆんしばん)の法系に連なっている。…

※「栄西」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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