栗原亮一(読み)くりはら・りょういち

朝日日本歴史人物事典 「栗原亮一」の解説

栗原亮一

没年:明治44.3.13(1911)
生年:安政2.3(1855)
明治時代の政党政治家鳥羽藩(三重県鳥羽市)出身。明治初年上京,中村敬宇の同人社に学ぶ。9(1876)年自主社を創立,『草莽雑誌』『莽草雑誌』を刊行し反政府的言論活動に従事した。西南戦争(1877)後は板垣退助の下で自由民権運動に挺身し,自由党結成に参加,『自由新聞』の主筆を務め,板垣の洋行に随伴した。その後中江兆民の『東雲新聞』記者となり,大同団結運動奔走,さらに自由党機関紙の記者として活躍,第1回衆院議員選挙(1890)より第10回(1908)まで毎回当選,自由党,憲政党,立憲政友会に所属,党務に尽瘁した。42年日糖疑獄に連座,下獄し政治生命を失った。彼が以来皆無斉と号したことはその心情を物語っていよう。<参考文献>「栗原亮一関係文書」(国会図書館憲政資料室)

(池内啓)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「栗原亮一」の解説

栗原亮一 くりはら-りょういち

1855-1911 明治時代の新聞記者,政治家。
安政2年3月生まれ。小松原英太郎と「草莽(そうもう)雑誌」を刊行。西南戦争後,板垣退助のもとで自由民権運動に参加した。明治23年衆議院議員(当選10回,政友会)。42年日糖疑獄に連座。明治44年3月13日死去。57歳。志摩(三重県)出身。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の栗原亮一の言及

【東雲新聞】より

…1888年(明治21)1月15日旧自由党員寺田寛や戸田猛馬らが1887年12月の保安条例で東京を追放された中江兆民を主筆に迎えて大阪で創刊した新聞。編集陣には栗原亮一や江口三省らを擁し,有力な政論新聞であった。条約改正問題,大同団結運動などに鋭い論陣をはったほか,被差別部落の解放にも力を尽くした。…

【草莽雑誌】より

…自主社より発行。社長は栗原亮一(旧鳥羽藩士。愛国公党の創立に尽力,のち衆議院議員)。…

※「栗原亮一」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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