桂文治(読み)かつらぶんじ

精選版 日本国語大辞典 「桂文治」の意味・読み・例文・類語

かつら‐ぶんじ【桂文治】

六代落語家。四代の長男。前名、文楽三代)。後名楽翁江戸の人。道具入り芝居噺(しばいばなし)を得意とし、「上野戦争」「高橋お伝」「西郷隆盛」などの際物(きわもの)上演。弘化三~明治四四年(一八四六‐一九一一

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デジタル大辞泉 「桂文治」の意味・読み・例文・類語

かつら‐ぶんじ〔‐ブンヂ〕【桂文治】

[1846~1911]落語家。6世。江戸の人。名人といわれ、道具・鳴り物声色こわいろ入りの芝居噺しばいばなしを大成した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「桂文治」の意味・わかりやすい解説

桂文治
かつらぶんじ

落語家。

初代

(1774―1816)桂派の祖。大坂で寄席(よせ)を創始し、芝居咄(ばなし)を興行。『蛸(たこ)芝居』『竜田川(たつたがわ)』『崇徳院(すとくいん)』などをつくる。文化(ぶんか)13年11月29日に伊勢(いせ)・四日市で客死。

[関山和夫]

2代

生没年不詳。初代実子文吉。大道具入り芝居咄に長じた。3代目から文治上方(かみがた)と江戸に分立。上方では、2代目の門人文鳩(ぶんきゅう)の弟子九鳥(生没年不詳。京都の人で滑稽(こっけい)咄の名手)が3代目を継ぎ、4代目を、俗に長太文治といわれた3代目の門人慶枝(けいし)(生没年不詳)が継いだ。そして5代目の名跡は、初代文治門人の幾瀬(いくせ)(のち月亭生瀬(つきていいくせ))が預り、そのまま絶えた。

 江戸では、2代目三笑亭可楽(からく)の門人房馬(ぼうば)(?―1857)が、初代文治の妹を妻とした関係でやはり3代目を名のった。この江戸の3代目の前名から桂文楽は始まる。

[関山和夫]

4代

(1819―67)3代目の養子。のち初代桂才賀(さいが)を名のる。

[関山和夫]

5代

(1830―61)4代目の門人。文太郎といったが、2代目文楽から、5代目文治を襲名。音曲師。

[関山和夫]

6代

(1846―1911)4代目の実子由之助。3代目文楽を経て6代目を襲名。その名は当時のしりとり歌に「桂文治は噺家(はなしか)で……」とまで歌われ、道具入り芝居咄を得意とした。

[関山和夫]

7代

(1848―1928)大阪の2代目桂文団治(ぶんだんじ)が襲名。

[関山和夫]

8代

(1883―1955)本名山路梅吉。6代目の養子。1922年(大正11)襲名。

[関山和夫]

9代

(1902―78)本名高安留吉。1960年(昭和35)翁家(おきなや)さん馬から襲名。

[関山和夫]

10代

(1924―2004)本名関口達雄。1979年(昭和54)に襲名。99(平成11)~2004年落語芸術協会会長。

[関山和夫]

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改訂新版 世界大百科事典 「桂文治」の意味・わかりやすい解説

桂文治 (かつらぶんじ)

落語家。(1)初代(1773-1815・安永2-文化12) 上方最後の辻咄家松田弥助門下。上方で寄席を創設し,芝居噺の創始者で,《崇徳院(すとくいん)》《蛸芝居》などの作者。(2)2代は生没年未詳。初代の実子文吉。名手とうたわれた。3代になって,この名称は上方と江戸に分かれた。(3)上方。3代は生没年未詳。2代文治門下文鳩の弟子で滑稽噺の名手九鳥。4代は生没年未詳。3代の門人慶枝が襲名し,長太文治と呼ばれた。5代を初代門人月亭生瀬があずかり,以後絶えた。(4)江戸。3代(?-1857(安政4)) 2代可楽の弟子翁家さん遊。文治ののち初代桂文楽から大和大掾(やまとたいじよう)となる。4代(1819-67・文政2-慶応3) 3代の養子才賀。5代(1830-60・天保1-万延1) 美声の音曲師で,2代文楽となる。(5)6代(1846-1911・弘化3-明治44) 4代文治の長男由(よし)之助。3代文楽から文治を襲名。〈下谷上野は山かつら,桂文治ははなし家で〉と尻取り歌にうたわれた名手。《西郷隆盛》《上野の戦争》などの道具入り芝居噺で有名。(6)7代(1848-1928・嘉永1-昭和3) 大阪の2代桂文団治が襲名。(7)8代(1883-1955・明治16-昭和30) 本名山路梅吉。義太夫語りだったが,6代文治の養子になり,4代才賀となる。大阪へ修業に出て慶枝となったが,帰京後,7代翁家さん馬で真打昇進。のち文治を襲名。《祇園祭》は有名。(8)9代(1892-1978・明治25-昭和53) 本名高安留吉。4代円蔵に入門して咲蔵。2代桂三木助に師事して三木弥,のち7代さん馬(8代文治)門に転じ,さん馬から文治を襲名。《片棒》《不動坊》など,飄逸な芸の持ち主。(9)10代(1924-2004・大正13-平成16)本名関口達雄。柳家蝠丸(ふくまる)の実子。伸治から襲名。滑稽噺の名手。
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百科事典マイペディア 「桂文治」の意味・わかりやすい解説

桂文治【かつらぶんじ】

落語家。初代〔1773-1815〕は上方(かみがた)で寄席を創設。芝居噺(ばなし)を始めた。3代以後,文治の名跡は上方と江戸に分かれ,上方ではやがて絶えた。6代〔1846-1911〕は道具入り芝居噺を得意とし,上野戦争,高橋お伝などの際物(きわもの)を演じた。8代〔1883-1955〕は《祇園祭》などを得意とした。
→関連項目桂文楽

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世界大百科事典(旧版)内の桂文治の言及

【寄席】より


[大阪の寄席]
 大坂の寄席は,江戸よりも早くできた。初代米沢彦八(?‐1714)はすでに元禄のころに生玉(いくたま)社境内で葭簀張りの興行を行ったようであり,松田弥助や初代桂文治は,寛政から文化・文政のころにかけての寄席興行の基礎を固めている。天保から弘化(1844‐48)のころに桂(かつら)・林家(はやしや)・笑福亭(しようふくてい)・立川(たてかわ)のいわゆる上方四派の噺家たちが大いに活躍したために大坂の寄席の形態は完成され,寄席興行はすこぶる隆盛であった。…

【落語】より

…江戸の寄席興行創始者は,大坂下りの落語家岡本万作で,1791年(寛政3)日本橋橘町の駕籠(かご)屋の二階で夜興行をし,98年,神田豊島町藁店(わらだな)に看板を掲げ,辻々にビラを貼って客を招いた。同年,江戸で山生亭花楽(さんしようていからく)(のち初代三笑亭可楽)が下谷(したや)稲荷社で,大坂では初代桂文治が座摩(ざま)社内で寄席興行を開催した。三笑亭可楽は,職業的落語家の祖として重要な存在だが,前記の寄席興行に失敗して芸道修業の旅ののち,1800年(寛政12),江戸柳橋で落語会を開き,04年(文化1),下谷広徳寺門前の孔雀(くじやく)茶屋で,客が出した〈弁慶,辻君,狐〉の三題を即座に一席の落語にまとめたことから人気を得た。…

※「桂文治」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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