桑原荘(読み)くわばらのしょう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「桑原荘」の意味・わかりやすい解説

桑原荘
くわばらのしょう

越前国坂井郡にあった東大寺領の荘。現在の福井県あわら市桑原・堀江十楽(ほりえじゅうらく)を含む地域に比定される。東大寺が755年(天平勝宝7)、大伴宿禰麻呂(おおとものすくねまろ)からその開墾地坂井郡堀江郷の地96町2段116歩を買得(ばいとく)して成立した。当時東大寺は造東大寺司(ぞうとうだいじし)という準国家機関の下にあったので、この荘の経営も、地方行政機構を通して行われた。同年から757年(天平宝字1)までの当荘経営の収支報告が残され、実際の経営を担当したのは前造東大寺司の官人(かんじん)であった越前国史生(ししょう)安都宿禰雄足(あとのすくねおたり)と足羽郡(あすわぐん)大領(たいりょう)生江東人(いくえのあずまひと)らであった。この荘の成立は、東大寺の力を借りた地域振興政策の現れである。758年以後はその実体は失われたとみられる。

[奥野中彦]

『岸俊男著『日本古代政治史研究』(1966・塙書房)』『奥野中彦著『荘園史と荘園絵図』(2010・吉川弘文館)』

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改訂新版 世界大百科事典 「桑原荘」の意味・わかりやすい解説

桑原荘 (くわばらのしょう)

東大寺領の古代荘園。越前国坂井郡堀江郷にあり,現福井県あわら市の旧金津町伊井桑原地区に比定される。この荘園は東大寺が755年(天平勝宝7)大伴麻呂から買得した土地に始まるが,実際にはその前年から寺の手に入っていたらしく754年から賃租収入をあげている。755,756,757年付の計4通の収支決算書が残存し,初期荘園の経営状況を物語る重要史料となっている。全面積は96町2段116歩で,うち開田部は買得時で9町,757年で37町2段。その田地を周辺の班田農民に賃租に出し,地子を得て経営を行っていた。実際に経営を担当したのは造東大寺司で,同司は現地へ田使を派遣し,また元同司の官人の越前国史生安都雄足,足羽郡大領生江東人(いくえのあずまひと)らをも現地の経営に動員した。しかし758年(天平宝字2)を最後に桑原荘は史料からその姿を消した。あるいは名称がかわり溝江荘となったのではないかとの説もあるが,それにしても10世紀前半までには荒廃した。
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百科事典マイペディア 「桑原荘」の意味・わかりやすい解説

桑原荘【くわばらのしょう】

越前国坂井郡堀江郷にあった東大寺領の初期荘園。現福井県あわら市桑原を遺称地とし,一帯に比定される。8世紀中葉に東大寺は大友宿禰麻呂から堀江郷の野地96町余(見開田9町・未開田87町余)を買得,田地を周辺の百姓に賃租に出し,754年から収入を得ていた。755年には23町が新たに開田されており,757年2月までにさらに10町が開かれたが,一方9町7段余が百姓逃亡により荒廃しており,同年11月には見開田37町余,うち賃租田は32町余であった。同年東大寺は未開地開墾のため水利施設の充実などの計画を立てているが,その後の動向は不明。

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