桜田門外の変/参加者一覧(読み)さくらだもんがいのへんさんかしゃいちらん

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

桜田門外の変/参加者一覧
さくらだもんがいのへんさんかしゃいちらん

*は別に本項目のあることを示す。
関鉄之介(せきてつのすけ) (1824―62)
 長男。10石三人扶持(ぶち)。郡方与力(こおりがたよりき)を勤め、詩歌をよくした。安政(あんせい)の大獄が起こるに及んで、薩摩(さつま)藩士高崎五六(ごろく)らと除奸(じょかん)の議を謀った。変後、薩摩入国を拒絶され、各地の豪農などに頼って潜行、越後(えちご)雲母(きら)温泉で捕縛され、江戸で死罪に処せられた。
稲田重蔵(いなだじゅうぞう) (1814―60)
 農民出身で長男。町方同心から1838年(天保9)郡吏となり、農政に参与、士籍を得る。変においては最初に井伊の駕籠(かご)を刺したという。闘死。
大関和七郎(おおぜきわしちろう) (1836―61)
 三男。黒沢忠三郎の弟で、叔父大関恒右衛門(つねえもん)の養子となり、1846年(弘化3)家督を継ぐ。150石。変の参加にあたっては人参(にんじん)をかんで気力を養ったという。変後、熊本藩邸に自訴、翌年伝馬町の獄で刑死。
岡部三十郎(おかべさんじゅうろう) (1818―61)
 父は書院番組(100石、役料50石)、次男。変に際し江戸で事前探索にあたり、直接襲撃には参加せず、見張り役を務めた。変後、一時京都にあったが、1861年(文久1)江戸にて捕縛、岡藩邸預けののち斬(ざん)に処せられた。
海後磋磯之介(かいごさきのすけ) (1826―1903)
 神官の次男。水戸で剣術・砲術を学ぶ。変後、奥州、越後(えちご)と逃れ、菊池剛蔵と改名し活動。維新後、警視庁に勤務した。余命を全うしたのは増子(ましこ)と2人のみ。
黒沢忠三郎(くろさわちゅうざぶろう) (1828/30―61)
 長男。100石、大番組。大関和七郎は実弟。武芸全般に通じた。変において重傷を負い、斎藤らと脇坂(わきさか)(老中、龍野(たつの)藩主)邸に自訴。熊本藩邸に幽せられ、翌年斬(ざん)に処せられる。
鯉淵要人(こいぶちかなめ) (1810―60)
 常陸(ひたち)諏訪(すわ)神社神官の長男。藩内神官の指導者。剣術に長ず。変後、脇坂邸に自訴途中、重傷のため八代洲河岸(やよすがし)で自刃。変参加の同志中で最年長。
斎藤監物(さいとうけんもつ) (1822―60)
 長男。父の跡を継いで常陸(ひたち)静神社神官。藤田東湖(とうこ)に師事。剣は神道(しんとう)無念流。1844年(弘化1)、幕府が藩主斉昭(なりあき)を処分したとき、越訴(おっそ)して処罰される。水戸藩を訪れる志士と交流を深めた。変において重傷を負い脇坂邸へ自訴、斬奸(ざんかん)書を提出。熊本藩邸に預けられ5日後死亡。
佐野竹之介(さのたけのすけ) (1840―60)
 長男。200石。大番組頭、小姓(こしょう)などを勤め、居合(いあい)に長じた。変では井伊を駕籠(かご)から路上に引きずり出したという。変後、重傷のため脇坂邸に自訴、同日死亡。
杉山弥一郎(すぎやまやいちろう) (1824―61)
 鉄砲師の長男。士籍に列し、変では同志のアジトをつくる。変において負傷し、熊本藩邸に自訴。翌年伝馬町の獄にて刑死。
蓮田市五郎(はすだいちごろう) (1833―61)
 町方属吏の長男。少時より篤学、文筆に長じ、寺社方の手代(てだい)を勤めた。変において負傷、脇坂邸に自訴。翌年刑死。
広岡子之次郎(ひろおかねのじろう) (1840―60)
 次男。広岡則孝の養子となり、1850年(嘉永3)家督を継ぐ。100石。変においては井伊の駕籠(かご)を突き破ったとされる。重傷を負い、和田倉門前にて自刃。井伊襲撃者のうち最年少。
広木松之介(ひろきまつのすけ) (1838―62)
 町方属吏の長男。評定所(ひょうじょうしょ)の吏員を勤めた。変では負傷せず、変後、加賀に逃れ、剃髪(ていはつ)して各地を潜行、変の三周忌の日、鎌倉上行(じょうぎょう)寺にて自刃。
増子金八(ましこきんぱち) (1823―81)
 藩士の次男。居合に通ず。1833年(天保4)進仕したが、46年(弘化3)浪人。変では傷も負わず、各地を逃亡、長く常陸(ひたち)石塚に滞留、病死。
森五六郎(もりごろくろう) (1838―61)
 藩士の五男。幼時より気性鋭く、時事を慨嘆した。変においては前駆して拳銃(けんじゅう)を放った。変で負傷し、熊本藩邸に自訴、翌年伝馬町の獄にて刑死。
森山繁之介(もりやましげのすけ) (1835―61)
 町方属吏の次男。青藍(せいらん)塾に学び、矢倉奉行手代(ぶぎょうてだい)を勤めた。変後、熊本藩邸に自訴、斬奸(ざんかん)書を提出。翌年伝馬町の獄にて刑死。
山口辰之介(やまぐちたつのすけ) (1832―60)
 藩士の四男。郡奉行(こおりぶぎょう)目付などを勤め、歌道もよくした。変において重傷を負い、八代洲河岸(やよすがし)で自刃。
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有村次左衛門(ありむらじざえもん) (1838―60)
 薩摩(さつま)藩士の四男。海江田(かいえだ)信義(有村俊斎)、有村雄助の弟。示現(じげん)流の剣術に長じ、江戸藩邸中小姓役を勤めた。変参加の唯一の薩摩藩士。井伊の駕籠(かご)を襲い、井伊の首級を太刀(たち)先に刺して掲げたとされる。重傷を負い、引き上げ途上自刃。

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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