桜間伴馬(読み)さくらまばんま

改訂新版 世界大百科事典 「桜間伴馬」の意味・わかりやすい解説

桜間伴馬 (さくらまばんま)
生没年:1835-1917(天保6-大正6)

能楽師。金春(こんぱる)流シテ方。伴馬は初名。1911年喜寿を記念し,左陣と改名喜多流の友枝家とともに熊本の細川藩に仕えた名家である桜間家の17代目。21歳のとき,藩命により江戸へ出,金春流地謡方の名人中村平蔵に師事,数年滞在して帰省,ふたたび江戸に上ったとき維新に遭遇して下国,1879年(明治12)細川護久の勧めで3度目の上京をして以後東京に永住。充実した気迫と鮮烈な型は他の追随を許さず,16世宝生九郎,初世梅若実とならんで明治の三名人とうたわれ,晩年まで至芸を見せた。《道成寺》《俊寛》《邯鄲(かんたん)》などの能を得意としたが,鬘物(かつらもの)の幽艶さでも類を絶したという。明治期に衰微していた金春流を背負って立ち,宗家の金春光太郎(のち八条)・栄治郎兄弟を守って盛り立てた功績は大きい。嗣子は桜間弓川(きゆうせん)。
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百科事典マイペディア 「桜間伴馬」の意味・わかりやすい解説

桜間伴馬【さくらまばんば】

能楽師。金春流シテ方。伴馬は初名。桜間家は喜多流の友枝家とともに,熊本藩の細川家に仕えた能の旧家。46歳で上京し《道成寺》を舞って一躍世に認められ,16世宝生九郎,初世梅若実と並んで明治三名人と称された。1911年左陣と改名。
→関連項目桜間弓川桜間道雄

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「桜間伴馬」の意味・わかりやすい解説

桜間伴馬
さくらまばんま
(1835―1917)

能役者。金春(こんぱる)流シテ方。晩年祖父の名をとって左陣(さじん)と改名。桜間家は喜多(きた)流の友枝家とともに熊本の藤崎八幡宮(はちまんぐう)に奉仕する能の旧家。伴馬は桜間家17代。弟に金記(きんき)、林太郎がいる。21歳で江戸に留学し、名人中村平蔵に学んだ。46歳以後は東京で活躍し『道成寺(どうじょうじ)』『邯鄲(かんたん)』などの鮮技で、たちまち16世宝生(ほうしょう)九郎、初世梅若実(みのる)と肩を並べ明治三名人と称された。晩年まで舞台に立って至芸をみせ、大正天皇の御大典(ごたいてん)宮中能では81歳の高齢で『高砂(たかさご)』の前シテを勤めている。宝生九郎と親交があり、九郎が流儀を異にする伴馬の子桜間金太郎(後の弓川(きゅうせん))に宝生会で隔月に能を舞う機会を与えたのは、明治能界の美談とされる。

[増田正造]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「桜間伴馬」の解説

桜間伴馬 さくらま-ばんま

1836*-1917 幕末-大正時代の能楽師シテ方。
天保(てんぽう)6年11月18日生まれ。熊本藩主細川家につかえる。維新後は東京にうつり,金春(こんぱる)流シテ方として活躍。初代梅若実,16代宝生(ほうしょう)九郎とともに明治三名人といわれ,「俊寛」などを得意とした。明治44年左陣と改名。大正6年6月24日死去。83歳。肥後(熊本県)出身。名は「ばんば」ともよむ。

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世界大百科事典(旧版)内の桜間伴馬の言及

【金春流】より

…分家に,安照の二男安喜から出て尾張徳川家に仕えた金春八左衛門家,安照の孫の安信から出て加賀前田家に仕え,禁裏の能も務めた竹田権兵衛家,伊達家に仕えた前記大蔵家があって流儀を支えたが,明治維新でみな断絶した。明治維新時の大夫74世広成(1830‐96)はその手腕を発揮して混乱期に対処し,1881年上京,同じく熊本から上京した桜間伴馬(ばんま)とともに金春流の健在を示した。桜間家は熊本の藤崎神社奉仕の旧家で細川藩に仕えた。…

※「桜間伴馬」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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