植松自謙(読み)うえまつじけん

精選版 日本国語大辞典 「植松自謙」の意味・読み・例文・類語

うえまつ‐じけん【植松自謙】

江戸中期の心学者信濃の人。名は徳恭。通称出雲屋和助。江戸に出て貸本業を営むかたわら、中沢道二師事道話名手として諸国を巡回し、教化につくした。寛延三~文化七年(一七五〇‐一八一〇

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朝日日本歴史人物事典 「植松自謙」の解説

植松自謙

没年:文化7.5.4(1810.6.5)
生年:寛延3(1750)
江戸時代の心学者。名は徳恭,通称和助。信濃国諏訪郡落合村瀬沢新田(長野県富士見町)に名主徳左衛門の嫡子として生まれる。16歳のとき江戸に出たが,数年で帰郷。26歳で家を継いで名主となるが,のちにそれを弟に譲り江戸に出る。寛政3(1791)年ごろに参前舎の中沢道二に師事し,心学を学ぶ。道二没後は,大島有隣と輪番交代で参前舎主を務めた。道話に優れ,江戸だけでなく諸国を巡回し,心学教化に努め,特に甲州(山梨県),信州(長野県)に大きな勢力を持った。慈悲深く,和助菩薩と呼ばれ人々に慕われたが,文化5(1808)年京都遊説に赴き,病を得,中沢道二の子・道甫の家で没した。<参考文献>石川謙『石門心学史の研究

(米山光儀)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「植松自謙」の意味・わかりやすい解説

植松自謙
うえまつじけん

[生]寛延3(1750).信濃,諏訪
[没]文化7(1810).5.4. 京都
江戸時代後期の心学者。名は徳恭,通称和助。父は諏訪在の名主。中沢道二のもとで石田梅岩の心学を学び,寛政6 (1794) 年 45歳のとき,道話を開始し,諸国を遊説した。享和3 (1803) 年道二が病死すると同時に,道二の参前舎を継ぎ舎主となった。その後は大島有隣隔年に舎の責任を担当した。京都で遊説中病死。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「植松自謙」の解説

植松自謙 うえまつ-じけん

1750-1810 江戸時代後期の心学者。
寛延3年生まれ。信濃(しなの)瀬沢新田村(長野県富士見町)の名主の役を弟にゆずり,江戸で参前舎の中沢道二にまなぶ。師の没後は大島有隣(うりん)と交代で参前舎主をつとめた。信濃,甲斐(かい)(山梨県)など各地をめぐって教えを説き,和助菩薩(ぼさつ)とよばれた。文化7年5月4日死去。61歳。名は徳恭。通称は和助。

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