楠木正儀(読み)クスノキマサノリ

デジタル大辞泉 「楠木正儀」の意味・読み・例文・類語

くすのき‐まさのり【楠木正儀】

南北朝時代武将正成の三男。兄正行戦死以後、楠木氏棟梁とうりょうとして活躍。のち、南北両朝の和議を図り、あるいは北朝方につき、また南朝方に帰るなど去就が複雑であった。晩年は不明。生没年未詳。

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精選版 日本国語大辞典 「楠木正儀」の意味・読み・例文・類語

くすのき‐まさのり【楠木正儀】

南北朝時代の武将。河内守。正成の三男。正行・正時の弟。正行の戦死後、楠木一族を統率。南朝方重鎮として南北朝の和議を策して成立せず、一時北朝側についたが、永徳二年(一三八二)再び南朝に帰順する。生没年未詳。

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百科事典マイペディア 「楠木正儀」の意味・わかりやすい解説

楠木正儀【くすのきまさのり】

南北朝時代の武将。生没年不詳。楠木正成(まさしげ)の子,兄楠木正行(まさつら)の討死後,楠木氏の棟梁となり南朝の軍事力の中心となった。1352年および翌年京都に進軍した。1369年足利義満に降伏,幕府は正儀を河内および摂津住吉郡の守護に任じた。正儀は長慶(ちょうけい)天皇の即位や管領細川頼之の説得等によって北朝に降ったものとみられるが,頼之失脚後の1382年に南朝方に復帰,南朝方の河内・和泉守に任じられた。
→関連項目金剛寺

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朝日日本歴史人物事典 「楠木正儀」の解説

楠木正儀

生年:生没年不詳
南北朝期の武将,楠木正成の3男。貞和4/正平3(1348)年兄正行,正時が河内国(大阪)四条畷の戦で敗れ,自害したあと,楠木氏の棟梁として摂津,河内,和泉3国を司り,南朝方軍事力の中心として活動した。足利方としばしば戦い京都回復を目ざした。正平一統のあとの文和1/正平7(1352)年閏2月,山城八幡に入り七条大宮で足利義詮軍を敗走させ京都を回復するが,翌月には義詮軍の攻撃にあい,南朝軍は河内東条に退去を余儀なくされた。翌年,軍勢を整えて石塔頼房と共に京都に攻め入ったが義詮軍のため敗北した。延文2/正平12(1357)年には南朝より左馬頭に任じられ,南朝の重鎮となったが,幕府方の河内守護畠山国清らの攻撃を受け,楠木氏本貫の地・赤坂(大阪府南河内郡千早)を退去した。こののち正儀は南朝方として北朝との和平工作を進めたがうまくいかず,主戦論者の長慶天皇(後村上天皇の子)の即位などで,応安2/正平24(1369)年1月,細川頼之を通じ幕府方に投降した。投降後の正儀は,北朝より中務大輔に任じられ,重きをなしたが,幕府内での細川頼之の地位が低下するにつれ立場も悪化,ついに永徳2/弘和2(1382)年閏1月正儀は南朝に帰参した。南朝では参議に任じられたといわれているが,それ以降の消息は不明であり,帰参後6,7年で没したと伝えられるのみである。<参考文献>高柳光寿足利尊氏』,小川信『細川頼之』

(小森正明)

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改訂新版 世界大百科事典 「楠木正儀」の意味・わかりやすい解説

楠木正儀 (くすのきまさのり)

南北朝時代の武将。生没年不詳。正成の子,正行の弟。正行の討死後楠木氏の棟梁となり,南朝の軍事力の中心となった。正平一統ののち,1352年(正平7・文和1)京都に進軍,その後も幕府内部の分裂の間に翌年には再度京都に進軍し,摂津方面でも勢力を保った。しかし69年足利義満に降伏,幕府は正儀を河内および摂津住吉郡の守護に任じた。ついで73年(文中2・応安6)には河内金剛寺に南朝長慶天皇を攻撃した。正儀は一方では北朝との講和をすすめていたが,後村上天皇,足利義詮の死によって講和交渉が挫折し,主戦論者の長慶天皇の即位,管領細川頼之の説得等により北朝に下ったものと考えられる。しかし細川頼之が失脚したのち82年(弘和2・永徳2)に正儀は南朝方に復帰,南朝方の河内・和泉守に任じられた。晩年の消息は未詳。正儀の後は,楠木氏には顕著な行動はなくなった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「楠木正儀」の意味・わかりやすい解説

楠木正儀
くすのきまさのり

生没年不詳。南北朝時代の武将。正成(まさしげ)の三男。河内守(かわちのかみ)。1348年(正平3・貞和4)四條畷(しじょうなわて)で正行(まさつら)が自刃したのち、楠木一族の棟梁(とうりょう)として畿内(きない)各地を転戦した。観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)(1349~52)による幕府権力の内訌(ないこう)をついて、51年(正平6・観応2)以後たびたび京都を攻撃した。67年(正平22・貞治6)南北両朝の和平交渉に際して斡旋(あっせん)に努めたが失敗した。69年(正平24・応安2)細川頼之(よりゆき)の求めに応じて幕府方に走ったため、支族である和田(にぎた、あるいは、みきた)氏、橋本氏と対立し、一族間で流血の惨事を招いた。82年(弘和2・永徳2)閏(うるう)1月ふたたび南朝方に転じたが、以後の詳細は不明である。

[佐藤和彦]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「楠木正儀」の意味・わかりやすい解説

楠木正儀
くすのきまさのり

南北朝時代の武将。正成の3男。兄正行戦死の際は河内にとどまっていたが,以後南朝軍の中心となり活躍。左衛門尉,河内守を兼ね,河内,和泉守護に任じられた。正平6=観応2 (1351) 年 11月,南北両朝の合体が成立し,翌年閏2月後村上天皇が男山八幡へ進むと,正儀は京都に入って一時は足利義詮を近江に敗走させたが,まもなく京都は義詮の手に落ちた。その後,北朝軍との戦いは一進一退であったが,正平 16=康安1 (61) 年には再び京都を占領した。正平 24=応安2 (69) 年1月,正儀は細川頼之を頼って足利氏に下り,南朝を攻撃したが,弘和2=永徳2 (82) 年閏1月再び南朝に帰順し,翌年 12月参議に任じられた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「楠木正儀」の解説

楠木正儀 くすのき-まさのり

?-? 南北朝時代の武将。
楠木正成(まさしげ)の3男。兄正行(まさつら),正時の戦死後,摂津(せっつ),河内(かわち),和泉(いずみ)3国を領し南朝勢力の中心として活動。観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)以後たびたび京都を攻撃する。南北両朝の和平を工作したが失敗,応安2=正平24年(1369)足利義満に投降して河内,和泉の守護となる。管領(かんれい)細川頼之の失脚後南朝に帰参。

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旺文社日本史事典 三訂版 「楠木正儀」の解説

楠木正儀
くすのきまさのり

生没年不詳
南北朝時代の武将
正成の3男。正行 (まさつら) の弟。正行の死後,楠木氏一族を率いて,南朝方の武力の中心として河内・和泉で活躍。1361年一時京都を占領して南朝を優勢に導き,'67年両朝の和議をはかって失敗。'69年一時足利氏に降ったが,'82年再び南朝に復帰した。

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世界大百科事典(旧版)内の楠木正儀の言及

【和泉国】より

…36年(延元1∥建武3)室町幕府が開創されると,初代の守護に畠山国清が命ぜられるが,当国は南朝方の重要な戦略地であり,南北朝争乱の過程で軍事指揮の責任を問われ,守護はその後もしばしば更迭された。観応の擾乱(じようらん)以後は概して細川氏が多く守護に就任したが,69年(正平24∥応安2)南朝の河内・和泉国主楠木正儀(まさのり)が幕府に帰参するや,北朝は彼に国主の地位を認めたまま,新たに守護に任ずる特殊な措置を講じた。しかし正儀も78年(天授4∥永和4)南朝方の橋本正督の蜂起で更迭され,新たに山名氏清が守護を襲職した。…

【細川頼之】より

…67年義詮の死去に際し,幼少の義満の補佐を託され,管領に任ぜられ,これまで足利氏の家宰的性格しか与えられていなかった執事職を管領という幕府政治の中枢的な職に高め,幕政を左右した。69年(正平24∥応安2)南朝方にあって講和を主張し孤立していた楠木正儀を誘降し,河内,和泉の守護職を与えて南朝勢力の切り崩しをはかった。こうした頼之の積極的な南朝攻勢に対し,これを非難する空気が諸大名の間に生まれ,71年(建徳2∥応安4)には楠木正儀の河内攻略に諸大名が協力しないことを理由に管領職を辞して西芳寺に隠遁しようとしたため,義満がみずから西芳寺に赴いて慰留するという事態にまでなった。…

※「楠木正儀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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