楠木正行(読み)くすのきまさつら

精選版 日本国語大辞典 「楠木正行」の意味・読み・例文・類語

くすのき‐まさつら【楠木正行】

南北朝時代の武将。河内守。正成の長男。南朝に仕え、父の死後、楠木勢を率いて北朝軍と戦う。高師直・師泰の兄弟に攻められ、四条畷の戦いで、弟正時と刺しちがえて死ぬ。小楠公(しょうなんこう)貞和四年(一三四八)没。

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デジタル大辞泉 「楠木正行」の意味・読み・例文・類語

くすのき‐まさつら【楠木正行】

[1326~1348]南北朝時代の武将。正成の長男。父の死後、河内守・摂津守となり、南朝軍として活躍。河内四条畷しじょうなわて高師直こうのもろなお・師泰の軍に敗れて自害。小楠公。

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改訂新版 世界大百科事典 「楠木正行」の意味・わかりやすい解説

楠木正行 (くすのきまさつら)
生没年:?-1348(正平3・貞和4)

南北朝時代の武将。正成の子。1336年(延元1・建武3)正成が摂津国湊川に出陣するに際し,桜井駅(摂津国三島郡)で正行と別れたと《太平記》は記すが,史実は未詳。正成戦死後,正行は楠木氏の本拠南河内で成長したとみられるが,47年南朝軍の中心として,河内国藤井寺,摂津国住吉・天王寺などで,幕府山名時氏細川顕氏らの軍を破った。しかし翌年1月5日,南下する高師直軍と河内国四条畷で戦って敗れ,弟正時と刺し違えて死んだ。享年は《太平記》諸本により,22~25歳とひらきがある。
執筆者:

父の正成がそうであったように,すぐれた戦略家であり人望もありながら,死闘の末に刀折れ,矢尽きて悲運最期を遂げた英雄,という正行像の根源は,すべて《太平記》の所伝に発している。正行が敗軍の将兵にも思慕報恩の情を抱かせるほどに人情家であったことは,1347年(正平2・貞和3)11月の摂津安部野(阿倍野)の合戦で敗れ,河流に落ちて死に瀕した500余の敵兵を救出し,衣服や薬品を与えて療治させたうえ,馬や武具までも調えて送還した話に示される(《太平記》巻二十六)。その翌月に,河内の四条畷での最後の合戦に先だち,大和の吉野に後村上天皇をたずねた正行が,同地の塔尾の如意輪堂に参詣し,堂の壁板を過去帳に見立てて一党とともに記名し,あわせて〈返(かえ)らじと兼(かね)て思へば梓弓(あずさゆみ)なき数にいる名をぞとどむる〉の和歌1首を記しのこしたという話(同)も人口に膾炙(かいしや)したものである。しかし,いわば正行伝説とも称すべき一連の話題のなかで最も著名になったのは,〈桜井駅の別れ〉の場面であった。すなわち,兵庫湊川の合戦場に死を覚悟でおもむく正成が,随行していた長男正行(当時11歳か)に教訓を垂れて,あえて摂津の桜井の宿駅から急きょ本拠地の河内へと帰らせ,再起の時を期待させたという話(《太平記》巻十六)である。これが〈忠孝〉の模範として皇国史観によって喧伝され,国定教科書《修身》に載せられて国民のあいだに普及し,唱歌《青葉茂れる桜井の》(落合直文作詞,奥山朝恭作曲)とあいまって,正行像を決定的なものとした。なお,廃曲となった能楽に,この場面を構成した《桜井》がある。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「楠木正行」の解説

楠木正行

没年:貞和4/正平3.1.5(1348.2.4)
生年:生年不詳
南北朝期の武将。楠木正成の長子。左衛門尉,帯刀と称する。『太平記』の伝えるところによれば,父正成が建武3/延元1(1336)年湊川(神戸市)の戦で敗死したとき,正行は11歳であったという。このことを信ずれば嘉暦1(1326)年の出生となるが確証はない。その父正成は湊川での足利尊氏・直義軍との合戦の前に,正行を摂津国桜井(大阪府島本町)で本拠地・河内国(大阪府)に帰し,再起を期待したという。これが巷間にいう「桜井の別れ」である。正行は正成の没後,その遺領を継承し河内国の国司並びに守護として活動,畿内における南朝軍の中枢となった。 貞和3/正平2(1347)年南朝の中心的な人物の北畠親房の主戦論が主流となると,正行も東国,鎮西の南朝軍と共に兵を起こした。正行は,紀伊,河内,摂津と転戦,これに対して幕府は,細川顕氏を河内に派遣して,鎮圧に当たらせたが,正行軍の大勝となった。その後,幕府は,山名時氏の軍を援軍として送ったが,正行方はこれを摂津住吉,天王寺で迎え撃ち,激戦の末しりぞけた。こうした事態に危機感をつのらせた幕府は,ついに高師直・師泰兄弟を河内に向かわせた。貞和4/正平3年正月,河内国(大阪)の四条畷でこれを迎え撃ったが,激戦となり,ついに正行は弟の正時と刺し違えて自害した。この四条畷の戦を前にした正行は,吉野で後醍醐天皇の廟を拝したのち,出陣に当たり,如意輪寺の本堂の扉板に,やじりで「返らじとかねておもへば梓弓なき数に入名をぞとどめる」と辞世の歌を記しており,今にその遺品が伝来している。南北朝の内乱のなかで父正成の跡を追うような壮絶な最期であった。<参考文献>植村清二『楠木正成』

(小森正明)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「楠木正行」の意味・わかりやすい解説

楠木正行
くすのきまさつら
(1326―1348)

南北朝時代の武将。正成(まさしげ)の長男。1336年(延元1・建武3)桜井(さくらい)駅(大阪府三島(みしま)郡)で父正成と別れて河内(かわち)に帰った正行は、遺志を継いで、楠木一族の中心となって行動し、和泉(いずみ)、河内の土豪層を吸収しつつ退勢の挽回(ばんかい)に努めた。後村上(ごむらかみ)天皇の信任を受けて、南軍の将として畿内(きない)各地を転戦した。47年(正平2・貞和3)8月には、紀伊(きい)の隅田(すだ)城(和歌山県橋本市)を攻撃し、9月には、河内藤井寺(ふじいでら)(大阪府藤井寺市)に布陣した細川顕氏(あきうじ)の軍勢を破り、11月には、顕氏の援軍として住吉(すみよし)に出張した山名時氏(やまなときうじ)の軍を破って京都まで敗走させた。この合戦の際、渡辺橋でおぼれる多数の敵兵を救ったという。山名軍敗走の報により、尊氏(たかうじ)は、高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)を総大将として6万の大軍を南下させて南軍との決戦を迫った。翌年正月、両軍は河内四條畷(しじょうなわて)で激突したが、衆寡敵せず、南軍は敗退し、正行は重傷を負って自刃した。

[佐藤和彦]

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百科事典マイペディア 「楠木正行」の意味・わかりやすい解説

楠木正行【くすのきまさつら】

南北朝時代の武将。正成の長子。父の遺訓を守り,楠木一族を率い南朝の柱石として活躍。1347年出兵して山名時氏・細川顕氏(あきうじ)らを摂津(せっつ)などに破ったが,翌年高師直(こうのもろなお)・師泰兄弟と四条縄手(しじょうなわて)(現四條畷市)で戦い敗死。出陣前,如意輪堂の壁に梓弓(あずさゆみ)の歌を記したという話は有名。→楠木正成
→関連項目飯盛城楠木正儀四条畷神社渡辺津度会家行

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「楠木正行」の意味・わかりやすい解説

楠木正行
くすのきまさつら

[生]?
[没]正平3=貞和4(1348).1.5. 河内,四條畷
南北朝時代の武将。正成の長子。父戦死ののち,南朝に属して忠勤し,河内守兼摂津守に任じられた。正平2=貞和3 (1347) 年9月には細川顕氏を河内藤井寺,教興寺に破り,11月には山名時氏,細川顕氏らを摂津住吉,天王寺に破った。足利尊氏が高師直,師泰の大軍を河内に向わせると,正行は弟正時,和田賢秀らを率いて吉野の行宮に詣で,如意輪寺の壁に「返らじとかねて思へば梓弓,なき数にいる名をぞとどむる」と詠じて一族の名を書き連ね,戦場に向った。翌年1月四條畷で師直軍に敗れると,弟正時と刺し違えて死んだ。 (→四條畷の戦い )  

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「楠木正行」の解説

楠木正行
くすのきまさつら

?~1348.1.5

南北朝期の武将。正成の長子。帯刀・左衛門尉。父の敗死後,南朝の河内国司兼守護となり,畿内の南朝方軍事力の中心的存在になった。1347年(貞和3・正平2)8月以降,河内・紀伊で攻勢に転じ,幕府の派遣した細川顕氏(あきうじ),ついで山名時氏に大勝。事態を重視した幕府が高師直(こうのもろなお)・同師泰を河内にむかわせると,河内国四条畷(しじょうなわて)(現,大阪府四條畷市)で迎撃して敗れ,弟正時と刺し違えて自害。湊川の戦に死を覚悟で赴く父正成が,桜井の駅(現,大阪府島本町)で教訓をたれて正行を河内へ帰したとされるが,事実は不明。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「楠木正行」の解説

楠木正行 くすのき-まさつら

?-1348 南北朝時代の武将。
楠木正成(まさしげ)の長男。父の遺領をついで河内(かわち)(大阪府)の国司,守護となり,南朝方の将として畿内(きない)各地を転戦。貞和4=正平(しょうへい)3年1月高師直(こうの-もろなお)・師泰(もろやす)の大軍を河内四条畷(しじょうなわて)にむかえ撃つが敗れて負傷し,同月5日,弟正時とさしちがえて死んだ。
【格言など】返らじと兼て思へば梓弓(あづさゆみ)なき数にいる名をぞとどむる(「太平記」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「楠木正行」の解説

楠木正行
くすのきまさつら

1326?〜48
南北朝時代の武将
正成の長子。正儀 (まさのり) の兄。父の死後,河内・摂津を中心に一族を率いて南朝軍の将として足利軍に対抗。1348年尊氏の部将高師直 (こうのもろなお) ・師泰兄弟の大軍と河内四条畷 (しじようなわて) で戦い,弟正時とともに戦死した。

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世界大百科事典(旧版)内の楠木正行の言及

【飯盛城】より

…南北朝内乱の史跡の一つ。1347年(正平2∥貞和3)攻勢に転じた南朝方楠木正行は,河内・摂津国で幕府方山名時氏・細川顕氏らを破ったので,足利尊氏は執事高師直らを南下させた。翌年1月5日師直は河内国四条に着き,その東方にある飯盛山には,県下野守を旗頭とする白旗一揆が布陣した。…

【観応の擾乱】より

…この幕府首脳部の対立は,複雑な利害のからみ合う幕府諸将や諸国国人層に両陣営への分裂をひきおこしたが,概していえば,畿内近国の新興外様守護や中小国人層の多くが師直を支持し,有力な足利一門守護,幕府吏僚層,東国・九州などの伝統的豪族は直義支持に傾いたといえよう。 1347年(正平2∥貞和3)楠木正行の率いる南朝軍が河内に挙兵し,直義党細川顕氏畠山国清を破ったが,高師直はみずから幕府軍を率いて48年1月正行を倒し,吉野に攻め入り行宮を焼いた。この戦果によってにわかに勢威を強めた師直に対抗するため,49年4月直義は養子足利直冬を長門探題として中国に送り,ついで側近の上杉重能・畠山直宗とともに師直打倒を図った。…

【如意輪寺】より

…南北朝期,後醍醐天皇の吉野潜幸の際勅願寺となり,1339年(延元4∥暦応2)天皇が没するとともに堂後に陵を築いて塔尾陵(延元陵)と称した。1347年(正平2∥貞和3)12月27日,南下する北朝軍を迎え討とうとする楠木正行(くすのきまさつら)が,出陣にあたり本堂如意輪堂の壁板に将士一同の名を書き連ね,〈かへらじとかねておもへば梓弓なき数に入る名をぞとどむる〉と辞世の歌を残したことが《太平記》にみえる。もとは密教の寺院であったが,1650年(慶安3)に文誉鉄牛が再興してより,浄土宗となった。…

※「楠木正行」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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