樋口一葉(読み)ひぐちいちよう

精選版 日本国語大辞典 「樋口一葉」の意味・読み・例文・類語

ひぐち‐いちよう【樋口一葉】

小説家。東京出身。本名奈津。一五歳の時、中島歌子の歌塾にはいる。一八歳の時、父が死没し、生活のために筆をとることを決心して半井桃水に師事。また、「文学界」同人の知己を得、同誌の投稿者となる。同誌に連載された「たけくらべ」が、明治二九年(一八九六)「文芸倶楽部」に一括再掲載されるに及んで、鴎外、露伴らに絶賛され、その地位は不動のものとなった。他に「にごりえ」「十三夜」「一葉日記」など。明治五~二九年(一八七二‐九六

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デジタル大辞泉 「樋口一葉」の意味・読み・例文・類語

ひぐち‐いちよう〔‐イチエフ〕【樋口一葉】

[1872~1896]小説家・歌人。東京の生まれ。本名、なつ。中島歌子に和歌を学び、半井桃水なからいとうすいを小説の師とした。「文学界」の同人と親交。民衆の哀歓を描き、独自の境地を示した。小説「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「樋口一葉」の意味・わかりやすい解説

樋口一葉
ひぐちいちよう
(1872―1896)

小説家、歌人。明治5年3月25日(新暦5月2日)東京・内幸町の東京府庁構内の官舎で生まれる。本名なつ。夏子とも書いている。父則義(のりよし)、母たきはともに甲斐国(かいのくに)(山梨県)出身の農民であったが、幕末に江戸へ出、士分となって同心となったものの、明治維新に際会、則義は東京府庁に勤める役人となっていた。同時に金融、不動産業にも従事、一葉の幼年時代には経済的にも余裕があった。一葉は学歴としては青海学校(せいかいがっこう)小学高等科4級(現在では小学校5年にあたる)修了にとどまっているが、これは、女に学校教育は不要という母の意見による。

[岡 保生

萩の舎時代

その後、彼女は旧派の歌人和田重雄に和歌の指導を受け、さらに進んで1886年(明治19)中島歌子の萩の舎(はぎのや)に入門した。歌子も旧派の歌人で、その指導も旧派の伝統を受け継いでいた。したがって一葉の作歌もほとんど題詠による古今調の作品といってよいが、彼女は1890年一時萩の舎の内弟子となったこともあり、その和歌での学習はのちの小説創作にも影響がみられる。歌作数も4000首を超える。田辺龍子(たつこ)(三宅花圃(みやけかほ))は同門。1887年に長兄泉太郎、1889年には父則義が死亡し、一時母子は次兄虎之助(とらのすけ)のところに身を寄せたりしたが、結局1890年から、たき、一葉、くに(妹)の女3人で世帯をもつこととなり、本郷(現文京区)菊坂に移った。

[岡 保生]

桃水の女弟子

1891年4月、東京朝日新聞の小説記者半井桃水(なからいとうすい)に入門、小説家として立とうと志した。翌1892年『武蔵野(むさしの)』に発表した『闇桜(やみざくら)』は、桃水の指導を受けた文壇的処女作である。その後、桃水との仲が萩の舎で話題となり、中島歌子から叱責(しっせき)されて絶交せざるをえなかった。しかし、一葉には桃水の親切さが忘れられず、またその後もときどき生活の援助を受けたりしていて、彼女は終生桃水に慕情を寄せていた。

[岡 保生]

龍泉寺町時代

1893年から『文学界』同人たち、ことに平田禿木(ひらたとくぼく)、馬場孤蝶(ばばこちょう)、戸川秋骨(とがわしゅうこつ)、上田敏(うえだびん)らとの親交が開けた。彼ら同人はいずれも西欧文学に明るく、ロマン的で若々しい情熱をもち、一葉に新文学の刺激を与えた。一方、1893年7月から翌年4月まで下谷(したや)龍泉寺町(りゅうせんじまち)(現台東(たいとう)区竜泉)で荒物・駄菓子屋を開業、日々の商業に生活を賭(か)ける苦しさを体験し、町の子供たちの動きなどもつぶさに眺め、わがものとした。ここでの体験が、のち、名作『たけくらべ』を生んだ。

[岡 保生]

奇蹟の1年

1894年5月、本郷丸山福山町(現文京区西片(にしかた))に転居。同年12月『大つごもり』を『文学界』に、翌1895年1月から『たけくらべ』を同誌に連載し始めて、小説家一葉の開花時代を迎えた。この時分から没年の1896年1月までは「奇蹟(きせき)の一年」などといわれる。この間に『たけくらべ』を完成し(1896.1)、去るものは日に疎いといわれる人情の不如意を描いた『ゆく雲』(1895.5)、淪落(りんらく)の女の激しい生きざまが読者の胸を打つ『にごりえ』(1895.9)や、当時の家庭における男尊女卑の慣習に抗議する『十三夜』(1895.12)、女が一人生き抜くために閉ざされた人生の打開を求めようとする『わかれ道』(1896.1)などを発表しているからで、これらはいずれも、この時代に生きる女性の悲しみを切実に訴え、いまなお読者の胸を打つ名作である。しかし、1896年に入ってから彼女の健康は急速に衰え、『うらむらさき』(1896.2、未完)、『われから』(1896.5)などの作があるが、粟粒結核(ぞくりゅうけっかく)のため11月23日に没した。築地本願寺の樋口家の墓に葬られる(現在は杉並区和泉(いずみ)の本願寺)。一葉の生前に公刊されたのは、博文館「日用百科全書」中の一編『通俗書簡文』(1896.5)だけであり、小説を執筆したのはわずか5年間、作品数も約20編でしかないが、晩年の数編は、今日からすれば古風な文体ながら、それゆえにまた比類なき美しさをたたえ、長く読者に愛惜されて現代に及んでいる。また1887年以降没年までの膨大な日記は私小説風できわめて価値が高い。台東区竜泉に一葉記念館がある。

[岡 保生]

『『一葉全集』全7巻(1953~56・筑摩書房)』『『樋口一葉全集』4巻・別巻1(1974~・筑摩書房)』『『全集 樋口一葉』全4巻(1979・小学館)』『塩田良平著『樋口一葉研究』(1956・中央公論社)』『和田芳恵著『樋口一葉伝』(新潮文庫)』『和田芳恵著『一葉の日記』(福武文庫)』


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朝日日本歴史人物事典 「樋口一葉」の解説

樋口一葉

没年:明治29.11.23(1896)
生年:明治5.3.25(1872.5.2)
明治時代の文学者。24年6カ月の生涯に22篇の小説と和歌,随筆のほか日記文学の高峰をなす日記を遺す。本名なつ(戸籍名奈津)。東京府庁舎で則義,たきの次女として生まれる。父母は甲斐国(山梨県)の農家の出。のち父は明治新政府の警視局勤務。一葉は満11歳のとき,母の意により学校を退くが14歳で中島歌子の萩の舎に入門。ここで得た古典,和歌の素養と上流の子女の間で味わった屈辱の思いが一葉文学の土壌となる。兄の死により16歳で戸主となり,父の死(17歳時)後,母,妹を擁する一家の生計を負う身となるや渋谷三郎に婚約を破棄され,貧乏と裏切りを思い知る。 同門の先輩田辺(三宅)花圃が『藪の鶯』で稿料を得たのに刺激されて,小説家になることを決意し『朝日新聞』の小説記者半井桃水に入門し,『闇桜』以下3篇を発表するが,桃水との関係を醜聞視されて交際を断念。恋心を募らせていた桃水との別れは悲しく,実らぬ恋という一葉文学の基本的構図を生み出すことになる。間もなく『うもれ木』が『文学界』同人の目に止まり以後この雑誌が作品発表の舞台となる。この間同人達との交流が一葉に糊口のための文学から人生における文学の自律的意味について覚醒させ,商売に挑んだ吉原遊郭近くの下谷竜泉寺町,失敗して移転した丸山福山町の銘酒屋のたち並ぶ界隈を世界とした『たけくらべ』『にごりえ』で当代随一の作家となる。その他『大つごもり』『十三夜』『わかれ道』など,底辺に生きる人々,わけても近代のまだ明けやらぬ時代を生きる女達の,三従七去に縛られた儒教的家制度に閉じ込められた悲苦と抗議を,叙情に流されず現実を凝視する視点と文体の獲得によって描き見事な達成を遂げたが,さらに『裏紫』『われから』(1896)など,女の解放を渇望していたことを顕示する作品に挑戦した。最晩年のこの驚異的な自己発展には瞠目させられる。著作集に『樋口一葉全集』全7巻(1974年~,筑摩書房)などがある。<参考文献>塩田良平『樋口一葉研究』,松坂俊夫『樋口一葉研究』,関良一『樋口一葉・考証と試論』,前田愛『樋口一葉の世界』,新・フェミニズム批評の会編『樋口一葉を読みなおす』

(渡辺澄子)

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改訂新版 世界大百科事典 「樋口一葉」の意味・わかりやすい解説

樋口一葉 (ひぐちいちよう)
生没年:1872-96(明治5-29)

明治時代の小説家。本名奈津(なつ)。東京生れ。15歳のとき中島歌子の萩の舎(はぎのや)塾に入門,桂園派の和歌を学んだが,1889年に父が死去,女戸主として一家の生計を支えてゆくために,職業作家となる決意をかためた。同門の田辺花圃(かほ)が《藪の鶯》を発表して文壇に迎えられたことに刺激されたといわれる。91年《東京朝日新聞》の専属作家半井(なからい)桃水の門をたたいて小説制作の指導を乞い,翌年桃水が主宰する雑誌《武蔵野》第1号に処女作《闇桜》を発表した。その後1年足らずの間に,幸田露伴の作風を模した《うもれ木》を含む7編の短編を公にするが,その多くは和歌的な抒情の世界になずんだ習作の域を出ていない。93年小説を生計の資とする困難を自覚して,本郷菊坂町から吉原遊廓に接する下谷竜泉寺町に転居,雑貨屋を開業した。このころから馬場孤蝶,平田禿木(とくぼく)ら《文学界》同人との交流がはじまり,彼らの浪漫的情熱に啓発されたことと相まって,実生活の苦闘が作家的成熟をもたらすことになった。結局はみのらなかったものの,桃水との恋愛体験も,作品に奥行きを加えるかけがえのない契機であった。94年本郷丸山福山町に転居,肺結核で没する1年余りの期間に,《たけくらべ》《にごりえ》などの名作が発表された。西鶴の文体を規範に,明治女性の〈口惜しさ〉を昇華したところに,一葉文学の特色がある。なお死の直前まで書きつがれた日記は,明治の女書生としての一葉を伝える貴重な人間記録(ヒューマンドキュメント)である。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「樋口一葉」の意味・わかりやすい解説

樋口一葉【ひぐちいちよう】

明治期の小説家。本名奈津。東京生れ。中島歌子の萩の舎塾で和歌,古典を学び,小説は半井(なからい)桃水の教えを受けた。文芸雑誌《都の花》《文学界》等に寄稿,1894年《大つごもり》を,翌年《にごりえ》《十三夜》《たけくらべ》などを書いた。森鴎外幸田露伴斎藤緑雨,また《文学界》の同人などに激賞されたが,1年半ほどでこれらの名作をものしたあと肺結核で没した。《一葉日記》も評価が高い。2004年11月発行の5000円札に肖像を採用。
→関連項目木村荘八文芸倶楽部三宅花圃

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「樋口一葉」の解説

樋口一葉
ひぐちいちよう

1872.3.25~96.11.23

明治前期の小説家・歌人。本名奈津。なつ・夏子ともいう。東京都出身。父は株を買った御家人で,明治維新後は下級府吏。1886年(明治19)中島歌子の萩の舎塾に入門。88年長兄が病死し,相続戸主となる。翌年父も死去し一家を背負う。三宅花圃(かほ)の「藪の鶯」に刺激をうけ,小説で生計をたてようとする。半井桃水(なからいとうすい)に師事するが,師弟関係が醜聞化し桃水から離れた。92年に発表した「うもれ木」が「文学界」同人の目にとまり,交友が始まる。下谷竜泉寺町・本郷丸山町での生活を背景に「大つごもり」「にごりえ」「十三夜」「わかれ道」などを発表。「たけくらべ」は森鴎外・幸田露伴(ろはん)・斎藤緑雨(りょくう)の絶賛をうけ,文名は一気にあがったがまもなく病没。一連の日記が残る。「樋口一葉全集」全6巻。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「樋口一葉」の意味・わかりやすい解説

樋口一葉
ひぐちいちよう

[生]明治5(1872).3.25. 東京
[没]1896.11.23. 東京
小説家,歌人。本名,奈津。夏子とも書いた。小学校中退。 1886年歌人中島歌子の門に入ったが,小説家を志し 91年半井 (なからい) 桃水に師事,幸田露伴らの影響下に『うもれ木』 (1892) を書いた。その後,『ゆく雲』 (95) を経て『にごりえ』や『十三夜』 (95) により作家として開眼,『たけくらべ』の成功によって女流文壇の第一人者と目されたが,夭折した。ほかに『大つごもり』 (94) ,『われから』 (96) ,『うらむらさき』 (96) ,『一葉日記』 (1912) がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「樋口一葉」の解説

樋口一葉 ひぐち-いちよう

1872-1896 明治時代の歌人,小説家。
明治5年3月25日生まれ。19年歌人中島歌子の萩(はぎ)の舎(や)に入門。三宅花圃(みやけ-かほ)に刺激されて小説家をこころざし,半井桃水(なからい-とうすい)に師事。25年第1作「闇桜」を発表。27年末から1年あまりの間に「大つごもり」「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」などをかく。またすぐれた日記をのこした。明治29年11月23日死去。25歳。東京出身。本名は奈津。
【格言など】これが一生か,一生がこれか,ああ,いやだ,いやだ(「にごりえ」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「樋口一葉」の解説

樋口一葉
ひぐちいちよう

1872〜96
明治時代の女流小説家
本名は奈津 (なつ) (なつ,夏子)。東京の生まれ。父の死後母と妹をかかえ貧窮の生活に苦闘した。その間和歌・小説を学び,文語体ではあるが,叙情的・写実的に庶民,特に女性の悲しみを描いた。文筆生活4年,『にごりえ』『たけくらべ』などの名作,日記を残し,病死した。

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世界大百科事典(旧版)内の樋口一葉の言及

【一葉日記】より

…日記文学。樋口一葉が,1887年(明治20),16歳のときから終焉の年までの約10年間にわたって書きついだ生活記録で,途中脱落はあるが,メモや雑記を含めると七十数冊に及んでいる。半井(なからい)桃水との恋にちなむ〈若葉かげ〉〈しのぶぐさ〉をのぞけば,菊坂町時代が〈蓬生〉,竜泉寺町時代が〈塵の中〉,丸山福山町時代が〈水の上〉というように,ほぼ居住地べつに三つのタイトルがえらばれている。…

【たけくらべ】より

樋口一葉の短編小説。1895‐96年(明治28‐29)《文学界》に連載。…

【にごりえ】より

樋口一葉の短編小説。1895年(明治28)9月《文芸俱楽部》に発表。…

※「樋口一葉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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