橋田 邦彦(読み)ハシダ クニヒコ

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「橋田 邦彦」の解説

橋田 邦彦
ハシダ クニヒコ


肩書
文相,東京帝国大学教授

旧名・旧姓
旧姓=藤田

別名
号=無適

生年月日
明治15年3月15日

出生地
鳥取県鳥取市

学歴
東京帝大医科大学〔明治41年〕卒

学位
医学博士

経歴
17歳のとき橋田家に入る。幼少より漢学を学ぶ。鳥取一中、一高を経て東京帝大医科に進み、明治42年同大助手。大正2年からヨーロッパへ留学(ストラスブルク大、チューリヒ大)。帰国後の7年東大医学部助教授、11年教授。昭和12年一高校長を兼ねる。15年第2次近衛内閣の文相となり、16年国民学校令を公布、「臣民の道」を文部省から刊行。同年第3次近衛・東条内閣再任、教育審議会を廃止、戦時家庭教育指導要項を定め、大東亜建設文教政策を発表。中学・高校の年限短縮、学制改革勅令案を決定、18年内閣改造で文相辞任。19年教学錬成所長。「行としての科学」「正法眼蔵釈意」(2巻)など禅に関する著書がある。泉鏡花の「日本橋」の医学士葛木新三は橋田の性格がモデルとされる。20年GHQの戦犯指名を受け、警察の迎えが来た際、服毒し20分後に死亡した。

没年月日
昭和20年9月14日

家族
兄=藤田 敏彦(東北大教授)

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

20世紀日本人名事典 「橋田 邦彦」の解説

橋田 邦彦
ハシダ クニヒコ

大正・昭和期の生理学者,教育行政家 東京帝国大学教授;文相。



生年
明治15(1882)年3月15日

没年
昭和20(1945)年9月14日

出生地
鳥取県鳥取市

旧姓(旧名)
藤田

別名
号=無適

学歴〔年〕
東京帝大医科大学〔明治41年〕卒

学位〔年〕
医学博士

経歴
17歳のとき橋田家に入る。幼少より漢学を学ぶ。鳥取一中、一高を経て東京帝大医科に進み、明治42年同大助手。大正2年からヨーロッパへ留学(ストラスブルク大、チューリヒ大)。帰国後の7年東大医学部助教授、11年教授。昭和12年一高校長を兼ねる。15年第2次近衛内閣の文相となり、16年国民学校令を公布、「臣民の道」を文部省から刊行。同年第3次近衛・東条内閣で再任、教育審議会を廃止、戦時家庭教育指導要項を定め、大東亜建設文教政策を発表。中学・高校の年限短縮、学制改革勅令案を決定、18年内閣改造で文相辞任。19年教学錬成所長。「行としての科学」「正法眼蔵釈意」(2巻)など禅に関する著書がある。泉鏡花の「日本橋」の医学士葛木新三は橋田がモデルとされる。20年GHQの戦犯指名を受け、警察の迎えが来た際、服毒し20分後に死亡した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

367日誕生日大事典 「橋田 邦彦」の解説

橋田 邦彦 (はしだ くにひこ)

生年月日:1882年3月15日
大正時代;昭和時代の生理学者;政治家。文相
1945年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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