武田信廉(読み)たけだ・のぶかど

朝日日本歴史人物事典 「武田信廉」の解説

武田信廉

没年:天正10.3(1582)
生年:生年不詳
戦国時代の武将。信虎の3男。晴信(信玄)の同母弟。通称孫六。刑部少輔。剃髪して逍遥軒信綱と号す。画技に秀で「武田信虎画像」(甲府市大泉寺蔵),「武田信虎夫人画像」(同市長禅寺蔵)などの作品を残している。天正10(1582)年の織田信長甲斐侵攻の際には,信濃国伊那郡大島城(長野県松川町)にあったが,戦わずして退き,甲府で織田軍のために殺された。『甲陽軍鑑』は,その容貌が兄信玄に似ていたことから,兄の生前から「影武者」として身代わりを務めていたと伝えている。堀内亨武田 信繁たけだ・のぶしげ大永5(1525)~永禄4.9.10(1561.10.18)戦国時代の武将。甲斐国(山梨県)守護信虎の次男。信玄(晴信)の同母弟。初名次郎。のち左馬助を称し,その唐名から典厩とも呼ばれる。『甲陽軍鑑』は,父信虎が嫡男の晴信よりも信繁を愛し,家督を信繁に譲ろうとしたと記すが,天文10(1541)年晴信が,いわばクーデタによって信虎を駿河の今川義元の下に追放し,家督を相続した際にも晴信に従い,以後も晴信を補佐して活躍した。永禄4(1561)年,川中島の戦で戦死。なお,川中島の戦は何度か戦われたが,ふつうに川中島の戦という場合は,4回目の戦いであるこの時の激戦をさしていう。これより前,永禄1(1558)年4月,嫡男の信豊に「武田信繁家訓」を与える。これは1巻99カ条から成り,主君(晴信)への忠節,合戦の心得,家臣や領民に対する態度など武将としての心構えのほか,歌道や日常の作法など広範囲におよんでおり,当時の武士教養の一端をも伝えている。<参考文献>桃裕行「武家家訓の研究」(『桃裕行著作集』3巻)

(吉沢敬)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「武田信廉」の解説

武田信廉 たけだ-のぶかど

?-1582 戦国-織豊時代の武将。
武田信虎の4男。武田信玄の弟。元亀(げんき)元年信濃(しなの)(長野県)高遠(たかとお)の城主となる。天正(てんしょう)10年3月織田軍の甲斐(かい)侵攻のさい殺された。絵画にたくみで「武田信虎画像」「武田信虎夫人画像」などをのこした。甲斐(山梨県)出身。通称は孫六。号は逍遥軒信綱。

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