民主党(1996年結成)(読み)みんしゅとう

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

民主党(1996年結成)
みんしゅとう

新党さきがけを離党した鳩山由紀夫(はとやまゆきお)らが呼びかけ、さきがけ、社会民主党新進党などの離党者などで1996年(平成8)9月に結成した政党。13年後の2009年(平成21)8月の衆議院選挙で308議席を獲得、鳩山を首相とする連立政権を誕生させた。

 結党には衆議院議員52人、参議院議員5人が参加、衆議院議員数では自由民主党、新進党に次ぐ第三党でスタートした。2人代表制を導入し、代表に鳩山、菅直人(かんなおと)がついた。その後、1997年9月菅代表、鳩山幹事長体制となった。

 結党宣言では、(1)霞が関(かすみがせき)の解体と再生、(2)市民政治の復興、(3)共生型福祉社会への転換、の三つのスローガンを掲げたものの、結党後初の国政選挙となる1996年の衆議院選挙では、ブームを巻き起こすことはできず、公示前勢力と同数の52議席にとどまった。選挙後、自民党と個別政策課題で一致する問題で協力関係を築いていくことで合意したが、自民党との距離の取り方では、非自民色の強い鳩山と、同党との関係を重視する菅との間で差があり、1997年3月の党大会で、野党路線を貫く方針を決めた。1998年4月には民政党、新党友愛民主改革連合と合流し、衆議院議員93人、参議院議員38人の勢力になった。新生の民主党の代表には菅直人、幹事長に羽田孜(はたつとむ)がついた。同年7月に行われた参議院選挙では47人が当選し、勢力を伸ばした。

 1999年9月の党代表選挙では鳩山が代表に選出され、2002年9月に行われた党代表選挙でも再選された。しかし同年10月に行われた衆参統一補欠選挙の惨敗などの理由で、12月鳩山は代表を辞任、菅が後任に選ばれた(幹事長は岡田克也(おかだかつや)、1953― )。

 そして2003年9月、自由党(党首小沢一郎)と合併(党名は民主党のまま)。2004年5月、菅は自らの国民年金保険料未納問題で責任をとって代表を辞任。後任に岡田が就任した。同年7月の参議院選挙では自民党の獲得議席を上回る躍進を果たしたものの、2005年9月の衆議院選挙では大きく議席を減らし、岡田は辞任、前原誠司(まえはらせいじ)(1962― )が後を継いだ。しかしその前原も2006年、インターネット事業を柱に経営多角化を進めていたライブドア(2006年証券取引法違反により社長ら5名が逮捕。同年上場廃止)に関連する、偽の電子メールに基づいた国会質問を同党代議士が行った不祥事の責任をとって4月に辞任、小沢が新代表となった。

 2007年7月に行われた参議院選挙では60議席を獲得し、参議院第一党となった。しかし2009年3月、小沢の公設第一秘書が政治資金規正法違反容疑で逮捕され、小沢は代表を辞任、次の代表には鳩山がふたたび選ばれた。

 同年8月の衆議院選挙は政権交代のかかった選挙として注目されるなか、自民党・麻生(あそう)政権の失態もあって圧勝した(代表鳩山由紀夫、幹事長小沢一郎)。翌9月に開かれた特別国会で代表の鳩山が内閣総理大臣に指名され、民主党主導の連立政権が成立した。鳩山内閣以降、菅内閣(2010年6月成立)、野田佳彦(のだよしひこ)内閣(2011年9月成立)と、民主党主導の連立内閣が続いた。しかし2010年7月の参議院議員選挙以来、連立与党は参議院での過半数を失い、困難な政権運営を余儀なくされ、2012年12月の衆議院選挙でも大敗、政権を失った。選挙結果を受けて野田は代表を辞任、海江田万里(かいえだばんり)(1949― )が代表に選ばれた。

[水野雅之]

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