水野忠成(読み)みずのただあきら

精選版 日本国語大辞典 「水野忠成」の意味・読み・例文・類語

みずの‐ただあきら【水野忠成】

江戸後期譜代大名駿河国静岡県沼津藩主。一一代将軍徳川家斉に用いられて老中となり、幕府実権掌握。退廃した幕政のたてなおしに尽力した。宝暦一二~天保五年(一七六二‐一八三四

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「水野忠成」の意味・わかりやすい解説

水野忠成
みずのただあきら
(1762―1834)

江戸後期の沼津藩主、老中。旗本岡野肥前守知暁(ひぜんのかみともあき)の二男で、初め旗本水野忠隣(ただちか)の養子となる。小納戸(こなんど)、小姓(こしょう)を経て西丸(にしのまる)に勤仕、1785年(天明5)従(じゅ)五位下(げ)大和守(やまとのかみ)。86年西丸の徳川家斉(いえなり)(翌年11代将軍)が本丸に移るのに従う。同年12月、水野忠友(ただとも)の養子で離縁となった忠徳(ただのり)(田沼意次(おきつぐ)の二男意正(おきまさ))にかわって忠友の養子となる。家督相続後は奏者番(そうじゃばん)、寺社奉行(ぶぎょう)加役、若年寄、西丸側用人(そばようにん)等々の役職を歴任して、1817年(文化14)老中格と出世コースを歩んでいた。老中松平信明(のぶあきら)(小伊豆(こいず))が没し、勝手掛牧野忠精(ただきよ)が病気辞職すると、18年(文政1)2月勝手掛、同年8月老中首座となり、将軍家斉の信任を得て17年間も幕政の責にあたった。もっとも主要な事業は、金座役人後藤三右衛門(さんえもん)の協力を得て実施した貨幣改鋳で、その益金は60万0700両(『鋳貨図録』)もあったという。

 その政治手腕にかかわって「水の出てもとの田沼となりにけり」などという付句(つけく)や『甲子夜話(かっしやわ)』にみられるような田沼批判に劣らない厳しい批判があった。しかし一方、忠成没後まもなく家臣によって書かれたという『公徳弁』によれば、忠成にはそれなりの見識があったことが知られ、両者をあわせて忠成は論ぜらるべきであろう。藩にあっては、公用人土方有経(ひじかたありつね)を片腕として田沼時代の再来との評もある施策を展開した。なお忠成は1821年、29年に1万石ずつ二度にわたって加増され、沼津藩は5万石となった。

[若林淳之]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「水野忠成」の意味・わかりやすい解説

水野忠成
みずのただあきら

[生]宝暦12(1762).12.1. 江戸
[没]天保5(1834).2.28. 江戸
江戸時代後期の幕府老中。沼津藩主,4万石。旗本岡野知暁の次男。もと旗本水野家の養子となり 2000石を与えられ,天明4 (1784) 年大和守となったが,沼津藩主水野出羽守忠友が養子田沼忠徳を離縁してのちその養子となった。享和2 (1802) 年忠友没後,家督を継ぎ出羽守と改称,奏者番,寺社奉行 (兼務) ,若年寄,側用人を経て,文化 14 (17) 年8月老中格,文政1 (18) 年8月老中に進み,天保5 (34) 年2月まで在職。「水野出て元の田沼になりにけり」といわれたように爛熟した大御所時代の幕府を指導した。『公徳弁』『藩秘録』は家臣の編んだ忠成の言行録である。

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朝日日本歴史人物事典 「水野忠成」の解説

水野忠成

没年:天保5.2.28(1834.4.6)
生年:宝暦12.12.1(1763.1.14)
江戸後期の老中。沼津藩主。旗本岡野知暁の子で,はじめ旗本水野忠隣の養子,次いで沼津藩主で老中の水野忠友の婿養子となり,享和2(1802)年に家督を継ぐ。文化14(1817)年に老中格,翌年老中となり,財政担当の勝手掛となる。将軍徳川家斉の厚い信任を受け,田沼意次の子意正や林忠央などの腹心を若年寄につけて幕政を牛耳った。「水の出てもとの田沼になりにける」と風刺され,家斉の大御所時代の金権腐敗政治の代表者とされた。在任中に幕府財政の悪化を連年の貨幣改鋳による利益で補填したため,物価高騰を招いた。他方,関東農村対象の文政の改革を推進した。

(藤田覚)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「水野忠成」の解説

水野忠成 みずの-ただあきら

1763*-1834 江戸時代後期の大名。
宝暦12年12月1日生まれ。幕臣岡野家から水野忠隣の養子となる。のち水野忠友の婿養子となり,享和(きょうわ)2年(1802)駿河(するが)(静岡県)沼津藩主水野家2代。文政元年(1818)老中となり,将軍徳川家斉(いえなり)のもとで幕政をになった。文政の貨幣改鋳による財政立て直し,関東の治安対策などに治績があるが,賄賂(わいろ)を横行させたとして悪評もうけた。天保(てんぽう)5年2月28日死去。73歳。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「水野忠成」の解説

水野忠成
みずのただあきら

1762.12.1~1834.2.28

江戸後期の老中。駿河国沼津藩主。父は旗本岡野知暁。旗本水野氏の養子をへて沼津藩主水野忠友の婿養子。出羽守。小姓時代から11代将軍徳川家斉(いえなり)の信任を得,寺社奉行・若年寄をへて,1812年(文化9)西丸側用人となる。17年本丸老中格,18年(文政元)勝手掛となり財政を主管し,34年(天保5)没するまで幕政を主導。8度に及ぶ貨幣改鋳,治安対策の文政改革,異国船打払令,婚姻を利用した大名融和策などの施策を行った。賄賂政治との悪評もあった。

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367日誕生日大事典 「水野忠成」の解説

水野忠成 (みずのただあきら)

生年月日:1762年12月1日
江戸時代中期;後期の大名
1834年没

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世界大百科事典(旧版)内の水野忠成の言及

【沼津藩】より

…駿河国(静岡県)駿東郡沼津に藩庁を置いた譜代中藩。1601年(慶長6)大久保忠佐が三枚橋城に入って立藩(2万石)したが1613年死去し,嗣子がなかったため除封,城も翌年破却。1777年(安永6)将軍徳川家治の側用人水野忠友が駿河駿東郡1万4000石,三河大浜6000石の2万石を与えられ,沼津築城を命ぜられ,水野沼津藩が成立した。2代忠成(ただあきら)は将軍家斉の信任を得て筆頭老中に昇任し化政期の幕政を掌握,領地も加増を重ね5万石に達した。…

【文化文政時代】より

…また幕府政治のうえからも,その前後の寛政,天保の両改革期と違って改革的要素が少なく,無気力かつ腐敗した時期とされた。文化期にはまだ松平定信の親任した老中が政治をとり,改革の綱紀が残存していたが,文政期になると老中首座を務めた水野忠成(ただあきら)は収賄の権化といわれ,〈びやぼん(当時流行の笛)を吹けば出羽(いでは)(忠成は出羽守)どんどんと金が物いふいまの世の中〉とうたわれ,これはかなり誇張があったようではあるが,武士や役人の道徳意識が変化し,理想化された武士像とのギャップを民衆から批判されたことを物語っている。将軍家斉は生涯を通じて40人の側妾(そくしよう)を持ち,このうち17人の腹から55人の子が生まれたが,これは家斉の大奥生活がどんなに長かったかを物語るものであり,豪奢(ごうしや)な生活内容を示唆してあまりある。…

※「水野忠成」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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