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デジタル大辞泉
「沈惟敬」の意味・読み・例文・類語
しん‐いけい〔‐ヰケイ〕【沈惟敬】
[?~1599]中国、明の軍人・政治家。嘉興(浙江省)の人。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、明の副使として慶長元年(1596)に来日したが、講和交渉に失敗。帰国後、偽りの報告が露顕し、処刑された。ちんいけい。
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沈惟敬 (しんいけい)
Shén Wéi jìng
生没年:?-1597
中国,明代後期の人。嘉興(浙江省)の人とされているが,福建省の人ともいわれる。父は商人として日本との間を往来し,日本事情にくわしかったという。惟敬は,壬辰倭乱(文禄・慶長の役)に際し,明軍の遊撃将に任ぜられて,朝鮮に赴き,もっぱら日本軍との折衝にあたる。1593年,小西行長らとはかり,にせの講和使を豊臣秀吉の下へ送って,日・明間の講和を成立させた。これをうけて,96年には,明の正式な冊封使の副使として来日し,秀吉とも会見するが,講和の偽装工作が露見して交渉は決裂,秀吉の朝鮮再侵略を招く。97年,明の朝廷に逮捕され,斬刑に処せられた。
執筆者:矢沢 康祐
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沈惟敬
しんいけい
Shen Wei-jing
[生]?
[没]宣祖30(1597)
安土桃山時代,文禄の役における明の使節。文禄1 (1592) 年9月平壌で小西行長と会い和議を進めたが,翌2年1月和議の進捗中に提督軍李如松が行長を襲撃,行長は大敗した。同3月碧蹄館の戦いののち再び竜山で会見,画策して和を議したが,加藤清正は終始これに反対していた。慶長1 (96) 年9月1日正使楊邦享の副使として豊臣秀吉に会見したが,秀吉は明の国書に怒り朝鮮再征を決意。惟敬は帰国したが,慶長の役においても終始行長と画策し,やがて日明両国を欺瞞していたことがあらわれ,明将に捕われ死罪となった。 (→文禄・慶長の役 )
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沈惟敬
没年:万暦25(1597)
生年:生年不詳
明代後期の軍人。中国語読み「チェン・ウェイチン」。嘉興(浙江省)の人とされるが,福建省の人ともいわれる。文禄の役(1592)の際,遊撃将軍として李如松の配下になる。平壌,ソウルで日本との和議交渉に当たり,小西行長らと謀り,偽の講和使(内藤如安)を明皇帝に遣す。その結果,慶長1(1596)年,明の正式な冊封使(豊臣秀吉を日本国王に封じることを伝える使節)の副使として来日,秀吉と会見するが,偽装工作が露見して交渉は決裂し,慶長の役(1597)に突入する。翌年,明朝に逮捕され,斬刑に処された。文禄の役の講和交渉に明側代表として画策した人物であった。<参考文献>北島万次『朝鮮日々記・高麗日記』『豊臣政権の対外認識と朝鮮侵略』
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沈惟敬【しんいけい】
〈ちんいけい〉とも。中国,明代の奸臣(かんしん)。浙江省の人。文禄・慶長の役に際し明側の和議の使者となり,小西行長らとはかり,1593年にせの講和使を豊臣秀吉に送り講和を成立させた。1596年には正式な冊封使の副使として来日,豊臣秀吉に謁見したが,偽装工作が露見して秀吉の朝鮮再侵略を招き,明の朝廷に逮捕されて斬刑に処せられた。
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沈惟敬 しん-いけい
?-1597 明(みん)(中国)の武将。
文禄(ぶんろく)の役の際,明の遊撃将軍として和議交渉にあたる。小西行長とはかって豊臣秀吉の降伏書簡を偽作し,内藤如安を明皇帝のもとに派遣。文禄(ぶんろく)5年(1596)明の冊封使(さくほうし)の副使として来日し,秀吉と会見。偽装工作が発覚し,慶長の役をひきおこす。万暦(ばんれき)25年明軍に捕らえられ処刑。浙江省(一説に福建省)出身。
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沈惟敬
しんいけい
?~1597
「ちんいけい」とも。文禄の役後の中国明の講和使。浙江省嘉興生れ。1592年(文禄元)8月明の兵部尚書石星にとりいり,遊撃として朝鮮に赴き,小西行長と講和を画策。翌年5月謝用梓・徐一貫らと肥前国名護屋にきて和平交渉をした。94年2月明に豊臣秀吉の偽の関白降表を届け,96年(慶長元)9月冊封副使として秀吉に対面したが,秀吉の冊封に失敗。謝恩表を偽作して明帝を欺いたため,処刑された。
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世界大百科事典(旧版)内の沈惟敬の言及
【定斎屋】より
…〈じょさい屋〉ともいい,〈是斎売(ぜさいうり)〉とも称された。《雍州府志(ようしゆうふし)》(1682)によると定斎薬は明(みん)の[沈惟敬](しんいけい)が豊臣秀吉に霊薬の処方を献じ,秀吉からそれを賜った大坂の薬商定斎なる者がつくりはじめたといい,同書が書かれた当時すでに近江の梅木(うめのき)(現,滋賀県栗太郡栗東町)の名物になっており,〈定斎和中散(わちゆうさん)〉〈是斎和中散〉と称して数軒の家がこれを商っていた。和中散にはいろいろの種類があり,これはその一種であったらしい。…
【文禄・慶長の役】より
…当時の朝鮮の正規軍は弱体であったが,慶尚道,全羅道を中心とする民衆の義兵組織や,圧倒的な明の援軍の到着によって補給路が絶たれ,渡海した兵員も各地に分散されたうえ一戦ごとに死傷者を出して手薄となっていた。この間,[小西行長]と[沈惟敬](しんいけい)(明の遊撃将軍)との間ですすめられていた和議交渉も,戦局の推移につれて二転,三転した。日本側の条件は出陣諸将の間の思惑の相違からまとまらず,秀吉自身も,当時の国際関係(明帝国を中心とする冊封体制)についての認識に欠けるところがあった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」