改訂新版 世界大百科事典 「沖島」の意味・わかりやすい解説
沖島 (おきのしま)
福岡県宗像(むなかた)市に属する玄界灘上の孤島。本州西端と対馬とのほぼ中間,九州本土で最も近い同市神湊(こうのみなと)から北西約55kmの位置にある。面積0.69km2,周囲約4.5km。玄武岩で構成された標高243mの山地で,海岸のほとんどが切り立った海食崖である。対馬暖流の影響で暖かく,亜熱帯植物の北限(北緯34°15′)でビロウ,ヒゼンマユミ,オオタニワタリなどの原生林(天)が茂り,オオミズナギドリが生息する。朝鮮半島への航路の要衝で宗像大社の沖津宮が鎮座し,4~9世紀の祭祀遺跡も著名である。全島神域で女人禁制が守られ,1921年開設の灯台が73年無人化されてからは2週間交代の神官1人だけが常住し,上陸の際はすべてみそぎをする。近海はタイ,ブリ,イカなどの好漁場で盛期には300隻近い漁船が集まり,1962年に大規模な避難港(第4種漁港)が完成した。
執筆者:土井 仙吉
祭祀遺跡
考古学では〈沖ノ島祭祀遺跡〉と書く。この島の遺跡が知られるようになったのは江戸時代で,貝原益軒,青柳種信らが調査をしたり,見聞記を残している。明治・大正ころには江藤正澄,柴田常恵らが調査を行い,第2次大戦前には田中幸夫,豊元国らが出土遺物の研究などを行った。その後,宗像出身の実業家出光佐三を中心に宗像大社復興期成会が設立され,社史編纂事業の一環として,1954-57年に第1次,第2次調査,69-71年に第3次調査が行われた。数万点の出土遺物が発掘され,現在すべて重要文化財に指定されている。祭祀遺跡は大きく(1)岩上祭祀(岩の上に祭場を設ける。4~5世紀),(2)岩陰祭祀(岩の接地面に祭場を設ける。6世紀),(3)半岩陰・半露天祭祀(岩の接地面とその周囲に祭場を設ける。7世紀),(4)露天祭祀(平地に祭場を設ける。8~9世紀)に分かれ,四つの段階は時代的な変遷をも示しており,岩上→岩陰→露天という動きをとらえることができる。現在23ヵ所の遺跡が確認されており,ほとんどは島の中腹にある沖津宮の背後の巨岩群に集中している。巨岩を依代として,そこに神が降臨すると考え,種々の神宝を奉納したのである。出土遺物は実にさまざまで,鏡,玉類,武器類,工具類,土器,滑石製品,金銅製祭祀遺物,舶載品,奈良三彩などがあり,量と質からは日本最大の祭祀遺跡である。とりわけ鏡は舶載,仿製あわせて50面以上にものぼり,畿内第一級の古墳の副葬品にせまるものである。舶載品には朝鮮三国時代の馬具(杏葉,雲珠など),中国六朝時代の金銅製竜頭1対,ササン朝ペルシアのカットグラス,唐三彩長頸瓶などがあり,この島が古代大陸交渉に重要な位置を占めていたことを十分にうかがわせ,〈海の正倉院〉といわれている。また沖島の特殊な遺物として滑石製品と金銅製祭祀遺物がある。滑石で人物,馬,舟などをかたどったものは奈良・平安時代に,材質は木,土と違いはあるが,流行したもので,遣唐使,漁民が宗像神に航海の安全を祈るために奉納したのであろう。金銅製遺物は,紡織具を中心に武器,工具,器皿,人形などのミニチュアで,神宮神宝とも合致する遺物である。沖島の遺物は4世紀から10世紀におよび,それぞれの時代の特色を如実に示したものが多い。現在,遺物は宗像神社神宝館に常陳されている。
→宗像大社
執筆者:弓場 紀知
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報