法然(読み)ホウネン

デジタル大辞泉 「法然」の意味・読み・例文・類語

ほうねん【法然】[人名]

[1133~1212]平安末期の浄土宗の僧。美作みまさかの人。いみなは源空。比叡山黒谷天台および諸宗を学び、安元元年(1175)称名念仏に専念する立場を確立し浄土宗を開いた。洛東吉水よしみずに草庵を結んで布教し、信者の増加に伴って迫害され、一時讃岐さぬきに流されたが、後に許されて京に戻り、東山で入寂。勅諡号ちょくしごう円光大師。著「選択本願念仏集」など。黒谷上人吉水上人。→御忌ぎょき2

ほう‐ねん〔ホフ‐〕【法然】

法爾ほうに」に同じ。

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精選版 日本国語大辞典 「法然」の意味・読み・例文・類語

ほう‐ねん ホフ‥【法然】

[1] 〘名〙 仏語。法として当然そうであること。法爾。自然。必然。
※性霊集‐八(1079)大夫笠左衛佐為亡室造大日楨像願文「字写法然之文、義明无尽之旨
※真如観(鎌倉初)「大日・釈迦等の妙覚究竟の如来、本より法然(ホウネン)として、具足し玉へり」 〔観経疏‐序分義〕
[2] 平安末期から鎌倉初期の僧。美作国(岡山県)生まれ。浄土宗の開祖。諱号は源空。法然は房号。勅諡は円光大師、明照大師など。法然上人、黒谷上人、吉水上人などと尊称する。承安五年(一一七五)唐の善導の「散善義」を読んで開眼、念仏の人となった。文治二年(一一八六大原問答によってその名声を高め、建久九年(一一九八)には「選択本願念仏集」を著わして事実上の立宗宣言を行なう。建暦二年(一二一二)「一枚起請文」を書き、まもなく没した。その遺文を集めたものに「黒谷上人語燈録」一八巻がある。長承二~建暦二年(一一三三‐一二一二

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改訂新版 世界大百科事典 「法然」の意味・わかりやすい解説

法然 (ほうねん)
生没年:1133-1212(長承2-建暦2)

平安末・鎌倉初期の僧。浄土宗の開祖。諱(いみな)は源空,法然は房号。美作(みまさか)国久米南条稲岡荘(現,岡山県久米郡久米南町)に,久米の押領使漆間(うるま)時国の子として生まれた。母は秦氏。9歳のとき,稲岡荘の預所明石定明の夜襲を受けて父を失い,菩提寺(岡山県勝田郡奈義町)にいた叔父観覚にひきとられた。1145年(久安1)(一説に1147年)比叡山に登り,はじめ西塔北谷の持宝房源光につき,2年後東塔西谷の功徳院皇円に師事,47年戒壇院で受戒し,出家の本意をとげた。隠遁の志深く,50年西塔黒谷の慈眼房叡空の室に移り,戒律や念仏などについて教えを受け,法然房源空と称した。黒谷には43歳まで居たが,法然が生涯持戒の清僧ですごし,伝戒の師として貴ばれたのも,この黒谷時代があったからである。源信の《往生要集》の研鑽につとめ,この書に引かれている唐の善導の著作にひかれ,その教学に傾倒していった。やがて善導の《観経疏(かんぎようしよ)》の散善義の〈一心に専ら弥陀の名号を念じて,行住坐臥に,時節の久近(くこん)を問はず,念々に捨てざる,これを正定(しようじよう)の業(ごう)と名づく,かの仏の願(がん)に順ずるが故に〉という一文に出会い,〈たちどころに余行をすて,ここに念仏に帰〉した(《選択(せんちやく)本願念仏集》)。ときに75年(安元1),法然43歳であった。こうして善導をみずからの思想と行動の軌範とする〈偏依(へんね)善導〉(ひとえに善導に依る)の姿勢を固めた法然は,善導流の念仏を修する遊蓮房円照(藤原通憲一子)を西山の広谷にたずねるべく比叡山を下り,ほどなく広谷から東山大谷に移って住房を構えた。

 当初,積極的な布教をしなかったが,1186年(文治2)(一説に1189年)天台宗の顕真が大原の勝林院に法然を招いて催したいわゆる〈大原談義〉ののち,その存在が知られるようになった。89年以降九条兼実の知遇を得て,92年(建久3)御家人の甘糟太郎忠綱を,また翌年には熊谷次郎直実を教化した。初期浄土宗諸派の始祖となった証空弁長,幸西,長西,隆寛らが1190年から10余年の間にあいついで入門,親鸞も1201年(建仁1)に弟子となった。法然は,弥陀の本願に絶対の帰信をよせ,称名(しようみよう)の一行に徹するみずからの宗教的立場を浄土宗と名づけたが,この名称が使われたのは,1175年より10年以内の時期と考えられる。この段階での浄土宗は宗義としての浄土宗であって,教団としてのそれではなく,またその教学体系の中心をなすのは善導流の本願論であって,法然独自の選択本願念仏論はまだ出ていない。この選択本願念仏の理論がはっきり示されたのは90年の東大寺における浄土三部経の講釈,著作としては兼実の要望で撰述された《選択本願念仏集》においてであった。法然はこのなかで〈選択〉を標榜し,下賤無知のものに対する独立した救済体系を示した。三昧発得(ほつとく)者としての善導に依憑していた法然は,みずからも三昧の成就を期したが,98年ついに発得の境地達し,1206年(建永1)までの間にいくたびかその体験をもった。これにより称名が仏意にかなった行であることを体認した法然は,〈偏依善導〉の態度をゆるぎないものとし,以後,元久・建永(1204-07)のころにかけて,最晩年に書かれた《一枚起請文》に直結する思想に到達したのである。専修(せんじゆ)念仏が高まった1204年,延暦寺衆徒が念仏停止を座主真性に訴えた。法然は軋轢を避けるため,直ちに七ヶ条制誡をつくって門弟に自重を促した。05年には興福寺衆徒が後鳥羽院に念仏禁断を訴え,06年暮に住蓮・安楽事件が生じた。これは後鳥羽院の熊野御幸の留守に,院の女房が法然の弟子の住蓮・安楽に近づき院の逆鱗にふれたもので,2人は死罪になったが,処罰は法然にまで及んだ。

 1207年(承元1)四国配流の宣旨が下り,法然は摂津経ヶ島(神戸市),播磨高砂(兵庫県高砂市),同室(むろ)の泊(兵庫県たつの市の旧御津町),塩飽(しあく)島の笠島(香川県丸亀市本島町笠島)を経て四国讃岐へ渡ったが,止住地ははっきりしていない。同年暮,後鳥羽院の発願になる最勝四天王院御堂供養の大赦により,赦免の宣旨があったが,入洛は許されず,摂津勝尾寺(大阪府箕面市)の二階堂に4年間逗留した。11年(建暦1)冬,ようやく帰洛がかない,大谷の山上の小庵(現在の知恩院勢至堂の地)に入ったが,翌12年正月から病床に臥した。同月23日,源智の懇請で念仏の肝要を一紙にしたため(《一枚起請文》),25日正午ごろわずかな門弟に見守られて,80歳の生涯をとじた。遺骸は臨終の庵室の東崖上に葬られた。墓堂が建てられ,忌日には知恩講がおこなわれ,多くの帰依者が集まった。《一枚起請文》を授けられた源智は師恩に報いんがために,3尺の阿弥陀仏像の造立を発願し,多数の念仏者の協力を得て12年暮に完成した(滋賀県甲賀市の旧信楽町の玉桂寺に現存)。1227年(安貞1)延暦寺の衆徒が墓堂を祇園社の犬神人(いぬじにん)に破壊させたが,門弟らは直前に廟墳をあらため,遺骸をひそかに西郊へ移した。遺骸は嵯峨にかくされ,翌年西山の粟生野(あおの)で荼毘に付され,その後嵯峨二尊院の鴈塔に安置された。
浄土宗 →専修念仏
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百科事典マイペディア 「法然」の意味・わかりやすい解説

法然【ほうねん】

鎌倉初期の僧。浄土宗の開祖。諱(いみな)は源空,勅諡(ちょくし)は円光大師など,通称は黒谷上人。美作(みまさか)の人。1147年比叡山で源光の門に入り,天台を学んだが,1150年教学などに対する疑問を生じ,西塔黒谷の叡空のもとに隠棲(いんせい)し,法然房源空と称した。以後20年間修学,善導の《観経疏(かんぎょうしょ)》によって,称名念仏に専修する悟りに達した。のち,東山の吉水に草庵を結び,老若貴賤(きせん)を問わず教化した。1186年天台の学匠顕真と専修念仏について議論(大原問答)し,女官の出家を契機として南都北嶺の迫害を受け,1207年土佐(実は讃岐(さぬき))に配流された。その思想は《選択本願念仏集》に最もよく表現され,至誠心(しじょうしん),深心(じんしん),回向発願心(えこうほつがんしん)の三心によって,老若貴賤,修行の多寡など問題なく,阿弥陀仏によって救われるとした。門下に聖光,源智,証空,親鸞などを出し,日本浄土教の発展の基礎となった。
→関連項目一枚起請文宇都宮歌壇鎌倉仏教久米南[町]光明寺金戒光明寺証空貞慶浄土教浄土教版浄土真宗称名念仏親鸞誕生寺知恩院重源天台宗仏教弁長法語法然上人絵伝松虫・鈴虫

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朝日日本歴史人物事典 「法然」の解説

法然

没年:建暦2.1.25(1212.2.29)
生年:長承2.4.7(1133.5.13)
もしも,仏教を日本という風土に適合させた人をひとり選ぶとしたならば,それはやはり法然(初め諱を源空,法然は房号)であるといわざるを得ないであろう。法然以前の仏教は多かれ少なかれ外国の仏教宗派の移入であったが,12世紀の末から13世紀の初めに活躍した法然は,7世紀に活躍した善導の思想的影響によって浄土宗なる新しい宗派を創設し,その後の日本仏教に大きな影響を残した。 法然は長承2(1133)年,美作国(岡山県)久米南条稲岡荘の押領使の漆間時国の子として生まれたといわれる。彼が9歳のときに,父は預所の明石定明によって殺された。法然は僧となり,やがて叡山に登り,18歳のときに西塔黒谷の叡空の弟子となった。叡空は,源信の流れを汲む隠遁念仏者であった。この法然の伝記には多少の疑問があるが,彼が少年のころから深く世を厭い,後世に期待をかけていたことは間違いない。 彼の思想的な出発点は恵心僧都の『往生要集』であったが,やがて師の叡空などと念仏の解釈を異にするようになった。叡空は,念仏というのは「観無量寿経」で説くような観想の念仏を主とすべきであるというのに対し,法然は,源信の真意は観想の念仏ではなく,口称の念仏,すなわち口で「ナムアミダブツ」と称える念仏にあったというのである。この念仏をもっぱら口称念仏に限るという考えを法然は,善導の『観無量寿経疏』によって得た。この念仏解釈を通じて,彼は叡空と仲違いをし,ついに安元1(1175)年,43歳にして山を降りた。この年を浄土宗開宗の年とするのである。 法然はなぜ,念仏を口称念仏に限る浄土教の革命的解釈を行ったのか。もしも念仏を観想の念仏と考えたならば,それができるのはごく少数の人であり,そうなれば大多数の人間は極楽浄土へ行けない。それは仏教の平等の精神に相反する。念仏を口称念仏に限れば,念仏はまことに易行となり,どんなに愚かな人間でも,どんなに悪い人間でも極楽浄土へ行けるということになる。救いの平等性への確信が,法然をしてあえて口称念仏,専修念仏の教えに踏みきらせた。 時はちょうど源平の戦いが終わった中世の初め,法然の教説は,水の低きに流れるが如く世間に受け入れられ,多くの信者をつくった。時の関白,九条兼実もその信者のひとりであったが,建久9(1198)年,兼実の依頼によって念仏の肝要を述べたのが『選択本願念仏集』である。ところが,この専修の念仏の教えは伝統的な仏教の反感を招き,ついに遵西,住蓮などの起こした事件によって法然は流罪になった。建暦1(1211)年,許されて京に帰ったが,翌年80歳の生涯を閉じた。 彼の教説は,聖光あるいは証空などによって作られた浄土宗の諸派によって伝えられるが,浄土真宗の開祖,親鸞も自ら,法然によって教えられた教説以外のことは語っていないという。

(梅原猛)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「法然」の解説

法然
ほうねん

1133.4.7~1212.1.25

平安末~鎌倉初期に日本浄土宗を開創した僧侶。法然は房号で,諱は源空(げんくう)。諡号は円光大師など。美作国生れ。父は稲岡荘の押領使漆間(うるま)時国。母は秦氏。9歳で父を亡くし,1147年(久安3)に延暦寺にのぼり,皇円(こうえん)を師として出家し,延暦寺戒壇で受戒。50年には西塔の黒谷(くろだに)に遁世して,慈眼房叡空(えいくう)の弟子となり,法然房源空と名のった。75年(安元元)43歳のとき,善導著「観無量寿経疏(しょ)」によって専修念仏に帰し,浄土宗の開創をめざした。まもなく延暦寺をおりて,東山吉水で自己の所信をひろめ,隆寛(りゅうかん)・親鸞(しんらん)・九条兼実(かねざね)ほか多くの弟子・信者を獲得したが,旧仏教勢力の迫害をうけた。1207年(承元元)2月には土佐国に流され(実際は讃岐),同年12月にゆるされた。著書「選択(せんちゃく)本願念仏集」「一枚起請文」。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「法然」の意味・わかりやすい解説

法然
ほうねん

[生]長承2(1133).4.7. 美作
[没]建暦2(1212).1.25. 京都
浄土宗の開祖。諱は源空で,法然房と号した。幼名は勢至丸。9歳で父を失い,叔父の観覚に従って剃髪。 15歳で比叡山に登り源光,皇円に師事。 18歳黒谷の叡空に学び,24歳京都,奈良で各宗の奥義を研究,のち黒谷に帰って大蔵経を閲読。承安5 (1175) 年3月善導著『観無量寿経疏』の「散善義」を読んで浄土教に帰し洛東吉水に庵居して念仏を称えた。文治2 (86) 年勝林院で浄土の法義を談論 (→大原問答 ) 。建永2 (1207) 年諸宗の嫉視により土佐に配流。のち許されて建暦1 (11) 年吉水の禅房に帰り,翌年没す。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「法然」の解説

法然 ほうねん

1133-1212 平安後期-鎌倉時代の僧。
長承2年4月7日生まれ。比叡(ひえい)山で源光,皇円,叡空に師事し,黒谷で法然房源空と称した。源信や唐(中国)の善導の思想的影響によって,安元元年専修(せんじゆ)念仏の教えを確立し,比叡山をくだり東山大谷で浄土宗をひらく。帰依(きえ)者がふえると,既成仏教教団の反感をまねき,念仏は禁止され,承元(じょうげん)元年四国へ流されたが,のちゆるされて京都にかえった。建暦(けんりゃく)2年1月25日死去。80歳。美作(みまさか)(岡山県)出身。諡号(しごう)は円光大師。通称は黒谷上人。著作に「選択(せんちやく)本願念仏集」など。
【格言など】一丈の堀を越えんと思わん人は,一丈五尺を越えんと励むべし(「勅修御伝」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「法然」の解説

法然
ほうねん

1133〜1212
平安末期〜鎌倉初期の僧。浄土宗の開祖
諱 (いみな) を源空という。美作 (みまさか) (岡山県)の人。初め叡山で天台教学を学んだが,末法の世の救いは念仏以外にないことを悟り,1175年専修念仏を説いて浄土宗を開いた。この他力易行の教えは武士・農民間に受け入れられ九条兼実など貴族にも帰依する者があったが,旧仏教側の弾圧が激しく,1207年土佐に流された。のち許され京都に帰り'12年没した。主著に『選択 (せんじやく) 本願念仏集』。

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367日誕生日大事典 「法然」の解説

法然 (ほうねん)

生年月日:1133年4月7日
平安時代後期;鎌倉時代前期の浄土宗の開祖
1212年没

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とっさの日本語便利帳 「法然」の解説

法然

我もと居せし所なれば、さだめて極楽へ帰り行べし。\法然
仏教者(一一三三~一二一二)。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「法然」の意味・わかりやすい解説

法然
ほうねん

源空

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世界大百科事典(旧版)内の法然の言及

【一念義・多念義】より

…法然門下におこった念仏往生に関する論争。弥陀の本願を信じておこす,ひとたびの念仏で往生できるとするのが一念義,往生には臨終までできるだけ多くの念仏を唱える必要があるとするのが多念義。…

【一枚起請文】より

法然の作。念仏の要義を1枚の紙に平易な文章で書き,釈迦・弥陀に偽りのないことを誓った文。…

【一心寺】より

…山号は坂松山。法然が1185年(文治1)慈円の請いを受け,四天王寺の西門辺,荒陵(あらはか)と呼ばれた現地に仏堂を建て,新別所と称したのに始まり,後白河法皇が四天王寺参詣の際,ここを訪れて法然と共に日想観を修したという。〈阿弥陀仏といふより外は津の国の難波の事もあしかりぬべし〉の歌はこの時法然が詠んだと伝える。…

【往生要集】より

…内容は(1)厭離穢土(おんりえど),(2)欣求(ごんぐ)浄土,(3)極楽証拠,(4)正修念仏,(5)助念方法,(6)別時念仏,(7)念仏利益(りやく),(8)念仏証拠,(9)往生諸業,(10)問答料簡(りようけん)の10章(大文)から成り,第4,5,6章が本書の中核部分で,念仏の正しい在り方を説く。ただ源信のいう念仏は,阿弥陀仏の姿形を観察する〈観想〉と,阿弥陀仏の名号をとなえる〈称名〉との両義に用い,どちらかといえば〈観想〉に比重が置かれ,また念仏以外の諸行を否定せず,鎌倉時代の法然,親鸞の浄土教思想に比べて徹底さに欠けるところがあった。 しかし,本書が後世の浄土教思想・文学・美術等に与えた影響は計り知れないものがあり,もっとも多くの人に読まれた仏書であるといえる。…

【大原談義】より

…1186年(文治2)浄土宗の開祖法然が天台宗の学匠顕真の招請をうけ,洛北大原の勝林院において諸宗の碩学を相手に論議したこと。大原問答ともいう。…

【黒谷上人語灯録】より

…1274年(文永11)11月から翌年1月の間に成立。浄土宗の宗祖法然房源空の遺文,消息,法語などを集成したもの。全18巻からなる。…

【讃岐国】より

…また讃岐国は後白河法皇以後断続的に院分国となった。なお,1207年(承元1)法然が讃岐に配流となり,浄土宗の展開をもたらした。 南北朝・室町時代,讃岐は細川氏嫡流,京兆(けいちよう)家の根本分国として重要な政治的役割をになった。…

【浄土教】より

…ただし,慧遠を中心とする結社は高僧隠士の求道の集まりで,主として《般舟三昧経》に依拠して見仏を期し,各人が三昧の境地を体得しようと志すものであって,ひろく大衆を対象とする信仰運動ではなかった。日本の法然,親鸞らを導いた純浄土教義と信仰は,北魏末の曇鸞(どんらん)に始まり,道綽(どうしやく)を経て善導によって大成される。はじめ竜樹系の空思想に親しんでいた曇鸞は,洛陽でインド僧の菩提流支に会い,新訳の世親撰《無量寿経論》を示されて浄土教に回心し,のち山西の玄中寺でこれを注解した《往生論註》を撰述し,仏道修行の道として仏の本願力に乗ずる易行道につくことを宣布するとともに,いわゆる〈浄土三部経〉を浄土往生の信仰の中心とする浄土教義をうちたてた。…

【浄土宗】より

…法然によって開かれた仏教の一宗派。《無量寿経》《観無量寿経》《阿弥陀経》の三経(浄土三部経)とインドの世親の著した《浄土論》を正依の経論とし,称名(しようみよう)念仏(南無阿弥陀仏と口に称える)によって,阿弥陀仏の極楽浄土へ往生することを期す。…

【塩飽諸島】より

…藤原純友の乱,治承・寿永の内乱の戦場ともなった。《法然上人行状画図》に1207年(承元1)3月讃岐に配流となった法然は塩飽に立ち寄り,地頭駿河権守高階時遠入道西忍の館で好遇をうけたとある。46年(寛元4)3月,《吾妻鏡》に海賊追捕の功労者としてみえる讃岐国御家人藤左衛門尉(香川郡司家資)の子孫が島年寄宮本氏,吉田氏の祖という。…

【親鸞】より

…比叡山で堂僧として20年の修行をつんだが悟りを得ず,1201年(建仁1)29歳のとき京都六角堂に参籠して本尊救世観音に指針を求めた。このとき聖徳太子の示現を得て,法然(源空)の門に入った。法然の主著《選択(せんちやく)本願念仏集》は専修(せんじゆ)念仏をよく理解した高弟にのみ見写が許されたが,05年(元久2)4月,親鸞は入門5年で書写を認められ,法然みずから題字と僧綽空(しやくくう)という当時の親鸞の名を書いて与えた。…

【専修念仏】より

…浄土に往生するため,念仏以外の行をまじえず,〈南無阿弥陀仏〉とただひたすらに念仏を唱えること。法然やその門流の宗教的立場を端的に示す語である。広義には,思想的,教団的に浄土宗の立場にあることを示し,他宗からは単に専修,または専修僧,専修念仏宗などとよばれた。…

【選択本願念仏集】より

…浄土宗の開祖法然の著作。1198年(建久9)法然66歳のとき,前関白九条兼実の懇請により著した。…

【善導】より

…また則天武后の発願になる竜門石窟の盧舎那仏の造立を監督したのも善導であった。主著に《観無量寿経疏》4巻などがあり,日本の法然や親鸞の浄土信仰に強い影響を与えた。【礪波 護】 善導の著作は奈良時代の前半に日本に伝わり,なかでも《西方法事讃》《往生礼讃》《観無量寿経疏》などは数多く書写され,その影響の著しかったことが知られる。…

【禅林寺】より

…1082年(永保2)永観は念仏行道のとき,弥陀顧命(みかえり)の相を感得して,本尊としたと伝え,その教化はひろく僧俗に及んだので,禅林寺は中興と称される永観の名をとって,永観堂と呼ばれるようになった。そののち真言浄土の僧珍海が入寺し,また浄土宗の祖法然房源空の門下に入った真言僧の静遍が住持すると,源空を招請して開山としたので,禅林寺は浄土宗に転じることとなった。そのあとには源空の弟子で浄土宗西山の派祖証空が入寺し,ついで2代は藤原氏出身の園城寺の僧が続いたが,17世に西山派西谷流の祖浄音が住持して以来同派の寺となった。…

【他力本願】より

…その心意には弥陀の本願力に身をあずけた真実の願いが籠められているが,後に他人まかせとか,もっぱら他人の力をあてにするといったような意味に悪用された。法然は,他力,すなわち阿弥陀仏の願力によって浄土に往生できる条件について,念仏をとなえても往生は定まっていないと少しでも疑念をもてば,仏の願力を借りて往生することはできず,また道心をさきとし,本願をおもうことをあとにすれば,この場合も阿弥陀仏の力で往生させてもらうことはできないと述べ,〈他力本願に乗ずるに二あり〉として〈一には罪つくる時乗ずるなり。その故は,かくのごとく罪をつくれば,決定して地獄におつべし。…

【誕生寺】より

…岡山県久米郡久米南町にある浄土宗の寺。栃社(とちこそ)山浄土院と号し,浄土宗の開祖法然の生誕地に建てたもの。草創に関しては,父の漆間(うるま)時国が館の西の椋(むく)のそばに寺を建て,法然が43歳のとき自作の御影(みえい)を京都より送ったという寺伝があるが,確証はない。…

【二尊院】より

…承和年間(834‐848)慈覚大師が嵯峨天皇の命で創建したと伝え,釈迦と阿弥陀の二尊を本尊にしたのが寺名の由来という。鎌倉時代,浄土宗の宗祖法然が当寺に拠って念仏をひろめ堂舎を復興し,そのあと弟子の湛空,叡空らが継ぎ,天台・真言・律・浄土四宗兼学の寺となり,代々の住持で天皇の戒師となるものも多く,寺勢も盛んとなった。南北朝の内乱と応仁の乱で焼失したが,それぞれ足利義教や三条西実隆らの尽力で再興された。…

【念仏】より

…南無阿弥陀仏と弥陀の名号を唱えて,極楽浄土への往生を期する,いわば〈念仏宗〉ともいうべき新宗派があいついで出現した。法然が開いた浄土宗,その弟子親鸞が立てた浄土真宗,さらに一遍を祖とする時宗がそれである。法然は諸行を捨て念仏の一行を選んだが,彼はその念仏はすでに弥陀によって選択されていた本願の念仏であったとし,念仏に絶対の価値を認めた。…

【仏教】より

…いわゆる鎌倉新仏教の成立である。念仏門の系統から,まず法然(源空)が日本浄土宗を開いた。法然は主著《選択(せんちやく)本願念仏集》を著し,富と知識を独占する貴族しかできない造寺・造仏・学解・持戒などの意義を退け,往生の要諦は阿弥陀―仏を信じて,念仏だけを唱えること(一向専修)で,これにより人びとは貴賤・男女の差別なく在家の生活のまま往生できると説いた。…

【法然上人絵伝】より

…新宗派浄土宗を立て,専修念仏を説いて念仏信仰を広めた,法然上人の生涯の行状を描いた絵巻。法然没後25年の1237年(嘉禎3)に作られた《法然上人伝法絵》(2巻,原本は遺らず)が最も早く,しだいに内容を増大させ,〈増上寺本〉,九巻本《法然聖人伝絵》(琳阿本),1301年(正安3)撰の《拾遺古徳伝》,《法然聖人絵》(弘願本,4巻が知られる)などの諸本,さらに全48巻の浩瀚な《法然上人行状絵図》(知恩院)に至るまで,浄土宗の発展とともに多種多様な傑作が生み出され広まっていった。…

※「法然」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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