波多野秀治(読み)はたのひではる

改訂新版 世界大百科事典 「波多野秀治」の意味・わかりやすい解説

波多野秀治 (はたのひではる)
生没年:?-1579(天正7)

戦国末期の武将波多野氏は,細川京兆家に仕え,応仁・文明の乱(1467-77)のころより丹波に入部し,多紀郡八上城本拠に勢をはった。秀治は宗家元秀を継ぎ左衛門大夫と称した。1568年(永禄11)織田信長入京後,当初信長に味方したが,76年(天正4)明智光秀荻野直正黒井城に攻めたときに反旗を翻した。78年4月明智軍が八上城を包囲し,秀治は1年半にわたり籠城を続けたが,79年6月に投降し,安土で処刑された。
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朝日日本歴史人物事典 「波多野秀治」の解説

波多野秀治

没年:天正7.6.2(1579.6.25)
生年:生年不詳
戦国時代の武将。丹波国多紀郡八上城(兵庫県篠山町)城主。幼名千熊丸。左衛門大夫と称す。晴通の子で,一族元秀の養子となる。八上城は天文19(1550)年以降三好長慶方の攻撃を受け,弘治3(1557)年10月,竜蔵寺城の落城後まもなく松永久秀に攻略され,松永孫六の入城を許した(『細川両家記』)。このため秀治らは黒井城の荻野直正のもとに逃れていたが,永禄3(1560)年,正親町天皇践祚ののち財政難から即位の礼が行われがたいのを憂えて金帛を献じ,一族を率いて朝儀に参列したという。同8年10月の直正の挙兵に応じて翌年2月八上城を攻略,城将孫六を追い奪還した。同10年三好三人衆と合戦。天正5(1557)年,織田信長の命を受けた惟任(明智)光秀により八上城は包囲され,1年半の籠城後,これに下った。安土で弟秀尚と共に礫刑に処せられた。

(森田恭二)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「波多野秀治」の解説

波多野秀治 はたの-ひではる

?-1579 戦国-織豊時代の武将。
丹波八上城(兵庫県)城主。織田信長にしたがわなかったため明智光秀に攻められ,弟秀尚の亀山城陥落,八上城は包囲された。籠城(ろうじょう)1年半後,光秀の計略にかかって捕らえられ,秀尚とともに天正(てんしょう)7年6月8日安土で処刑され,波多野氏は滅亡した。

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世界大百科事典(旧版)内の波多野秀治の言及

【波多野氏】より

…中世の武将,丹波の土豪。古くは越前の土豪で,道元の檀越となった波多野義重が知られる。一族は鎌倉後期六波羅探題の在京御家人,次いで室町幕府の評定衆となった。丹波の波多野氏はもと石見土豪吉見(よしみ)氏の一族で,吉見清秀は細川勝元に仕え,母方の姓を継いで波多野と称し,応仁の乱の軍功で抜擢され,細川氏の分国丹波多紀郡小守護代に就任,八上城主となってしだいに自立化の道を歩んだ。清秀の裔である稙通(秀忠)は1526年(大永6)細川高国に背いて晴元に通じ,40年(天文9)三好長慶に女を嫁がせ,長慶の岳父となった。…

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