浄土寺(読み)ジョウドジ

デジタル大辞泉 「浄土寺」の意味・読み・例文・類語

じょうど‐じ〔ジヤウド‐〕【浄土寺】

広島県尾道市にある真言宗泉涌寺派の大本山。山号は転法輪山。聖徳太子の創建と伝える。徳治元年(1306)西大寺の定証が中興、江戸中期から真言宗となる。本堂・多宝塔は国宝。
兵庫県小野市にある高野山真言宗の寺。山号は極楽山。聖武天皇の勅願により行基が開創。広渡寺と称したが荒廃し、鎌倉初期に東大寺播磨はりま別所として重源ちょうげんが再興、現寺号に改めた。阿弥陀三尊像・浄土堂は国宝。

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精選版 日本国語大辞典 「浄土寺」の意味・読み・例文・類語

じょうど‐じ ジャウド‥【浄土寺】

[一] 兵庫県小野市浄谷(じょうこく)町にある高野山真言宗の寺。山号は極楽山。聖武天皇の勅願により行基が開創したと伝えられる。はじめ広渡寺と称した。鎌倉初期、重源(ちょうげん)が東大寺の播磨別所として中興し、現名に改称。浄土堂(阿彌陀堂)・本尊の阿彌陀三尊立像はともに国宝。
[二] 広島県尾道市東久保町にある真言宗泉涌(せんにゅう)寺派の寺。山号は転法輪山。推古天皇のとき聖徳太子が創建したと伝えられる。嘉元四年(一三〇六)定証が中興。本堂、多宝塔はともに国宝。

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日本歴史地名大系 「浄土寺」の解説

浄土寺
じようどじ

[現在地名]尾道市東久保町

浄土寺山南麓にあり、転法輪山大乗院と号し、真言宗泉涌寺派。本尊十一面観音。当初は高野山系の真言宗に属し、鎌倉末期、定証の頃に奈良西大寺系真言律宗となり、江戸時代に真言宗泉涌寺派になる。鎮守神丹生にう社が鎮座。

寺伝に聖徳太子の創建といい、寺名は文永二年(一二六五)九月日付の青蓮院宮尊道法親王書写光明真言会願文(浄土寺文書)の末尾に「浄土寺沙門等敬白」とみえる。正安四年(一三〇二)六月二三日付の関東下知状(高野山文書)大田おおた(現世羅郡)領家高野山と地頭大田氏との相論の裁決に「尾道浦寺社事、右、同状者、堂崎別所分并平民名以下、浦内寺社同免田畠者、可為領家進止」とあり、堂崎どうざきにある当寺と東隣の曼荼羅まんだら(現海龍寺)は、高野山が大田庄倉敷地尾道浦を統轄するための政所であったとも考えられる。

嘉元四年(一三〇六)一〇月六日付の淵信法眼寄進状(浄土寺文書)に、三間四面の伽藍を建立し、聖徳太子自作の十一面観音立像を安置して「浄戒流通之道場」として西大寺叡尊の直弟子定証に寄進したとあり、定証が中興開山となったものであろう。同寄進状には淵信は堂崎大乗律だいじようりつ(当寺)に対し、浄土寺・曼荼羅堂別当職、別所分山地、浜在家など、大田庄預所職として領家方の勢力拡大に尽力した褒賞として高野山から与えられたものを寄進している。この寄進を契機に定証により本格的に寺観が整えられるが、定証入寺に際し、高野山衆徒は、浄土寺と曼荼羅堂は本来律宗寺院ではないとしながらも、浄土寺長老をもって両寺別当とすることを認めている(徳治二年七月二九日付「高野山衆徒寄進状」同文書)

嘉元四年一〇月一八日付の定証起請文(同文書)によると、本堂浄土寺(本尊阿弥陀等身坐像)・五重塔一基(本尊四方四仏)・多宝塔一基(本尊金剛界大日金泥像)・地蔵堂一宇(本尊地蔵菩薩像)・鐘楼は、尾道浦の豪商光阿の建立で、仏像は定証入寺以前に修理したり、新造されていたものとあり、金堂一宇(本尊聖徳太子作十一面観音立像)・食堂一宇・僧坊一宇・印憲作聖徳太子一六歳像一体・厨舎一宇が、定証の勧進により整えられた。

浄土寺
じようどじ

[現在地名]小野市浄谷町

極楽山と号し、高野山真言宗。本尊は薬師如来。塔頭は歓喜かんぎ院と宝持ほうじ院。創建は鎌倉時代初期で、治承四年(一一八〇)一二月一八日に兵火にかかった奈良東大寺を再興するため、養和元年(一一八一)八月、造東大寺大勧進職に任じられた俊乗房重源(南無阿弥陀仏)が、東大寺領大部おおべ庄に播磨別所として、薬師堂(本堂、国指定重要文化財)と浄土堂(国宝)を建立したのに始まる。浄土堂は重源が採用した大仏様の代表的遺構である。建仁三年(一二〇三)頃、重源が生涯の事績を記した南無阿弥陀仏作善集(東大寺文書)に「播磨別所 浄土堂一宇奉安皆金色阿弥陀丈六立像一ゝ并観音・勢至、一間四面薬師堂一宇奉安竪丈六一ゝ、湯屋一宇在常湯一口、奉結縁長尾寺御堂并半丈六三躰、観音・勢至・四天 施入鐘一口 始置迎講之後二年始自正治二年、弥陀来迎立像一躰 鐘一口」とある。建久五年(一一九四)一〇月一五日の重源横軸物文字寸法書写(浄土寺文書)に「仏舎利三粒、奉安置東大寺末寺播磨国大部庄浄土堂」とあり、仏舎利が浄土堂に安置されている。また寺蔵の鉦鼓(国指定重要文化財)の銘にも「東大寺末寺播磨浄土堂」「建久五年十月十二日」とあるから、この時にはすでに浄土堂ができていた。浄土堂は方三間で瓦葺であった(建久八年六月一五日「重源譲状案」東大寺文書)。その軒瓦は現神戸市西区にあった神出かんで窯で生産されたものである。また重源は年来同行の如阿弥陀仏と観阿弥陀仏両人を預所職に任命している(同譲状案)。建久三年九月二七日の造東大寺大勧進重源下文案(浄土寺文書)によると、大部庄内にあった数宇の旧寺の朽ち残った堂具を収集して、同庄北東の字鹿野原の端に仏閣一宇を構え、数体の仏像を安置、その別所を南無阿弥陀仏寺と号し、その堂を薬師と号した。

浄土寺
じようどじ

風浪ふうろう宮の神宮寺。泉涌せんにゆう(現京都市東山区)末。「校訂筑後志」に「浄土寺・宝琳寺両古址」として「共に三郡酒見村風浪社の辺にありて七堂伽藍の大寺」とある。永仁五年(一二九七)九月二一日に勅願寺になった(正安二年一〇月一六日「関東下知状」歴世古文書/鎌倉遺文二七)。文保元年(一三一七)三月五日の称念施行状(歴世古文書/鎌倉遺文三四)は、浄土寺住持教空に「三潴庄酒見村内浄土寺領」を領家の下文に任せ安堵する旨を伝えている。同年三月日の沙弥称念下文(同上)によると浄土寺は草創以来、本所の祈祷所であった。また本名主覚法・沙門教空が田薗を寄進した際、正安元年(一二九九)に下文を申請し、乾元堤を修固した時には、梁河やながわ(現柳川市)内の荒野二〇町を寄進された(年月日未詳「某下文」同上)。前掲文保元年三月日の沙弥称念下文で田数七町余が酒見さけみ村内の両尼寺宝琳ほうりん寺・摂取せつしゆ院に寄進されており、これら三ヵ寺は一体的に存立していたとみられる。

浄土寺
じようどじ

[現在地名]松山市鷹子町

鷹子たかのこの北部に位置し、背に小丘の久米くめ山を負っている。西林山三蔵院と号し、真言宗豊山派。中本寺格。本尊は釈迦如来

寺伝によると、一世の円光、二世の聖光、三世の良忠の各々の自作の像があったので三蔵院とよんだという。また「浄土寺縁起」によると孝謙天皇の勅願所として天平年間(七二九―七四九)に行基が創設し、空也が三ヵ年留錫したことがあり、源頼朝によって再興されたが、応永年中(一三九四―一四二八)の火災によって記録を焼失したと伝えられる。

文明一四年(一四八二)に、河野通宣が伽藍再建の工事を起こし、二年の歳月を費やして落慶の式をあげた(「松府古実録」所載の河野氏の禁制)

浄土寺
じようどじ

[現在地名]幸田町大草 山寺

大草おおくさ村の北部に位置し、北・東・南の三方が山に囲まれ、西のみ開けた標高六〇メートルの北寄り山腹にある。瑠璃山南城なんじよう坊と号し、天台宗。本尊は薬師如来。真福しんぷく(現岡崎市)のもと末寺。明治初年の「幸田村誌」に次のように記す。

<資料は省略されています>

寺伝では弘仁(八一〇―八二四)の頃、南城なる僧の創建と伝える。また建久(一一九〇―九九)の頃、源頼朝から朱印を与えられたとも伝える。

浄土寺
じようどじ

[現在地名]大分市王子西町

浄土宗、見仏山と号し、本尊は阿弥陀如来。「蓮門精舎旧詞」によると、開山の満誉は明応九年(一五〇〇)遠江国から毛井けいに来寓し浄土寺を建立した。翌文亀元年(一五〇一)生石いくしに移り当寺を開基、大永六年(一五二六)筑後国善導ぜんどう(現福岡県久留米市)に移り同寺一四世となった。同書によれば末寺は府内西応さいおう寺・駄原随雲だのはるずいうん院・同天神てんじん院・同西光さいこう院、中尾なかお修福寺、勢家せいけ法蔵寺、畳石西福たたみいしさいふく(現安心院町)であった。文禄二年(一五九三)の大友氏除封後、検地奉行山口玄蕃頭宗永は当寺を本陣として大分・海部・大野・直入なおいり四郡の検地を実施したという(雉城雑誌)

浄土寺
じようどじ

[現在地名]一の宮町坂梨

坂梨さかなしの南東部、阿蘇外輪山の山麓に位置し、鳳翔山と号し、曹洞宗、本尊阿弥陀如来。元弘三年(一三三三)中国人宝山鉄の開基と伝えるが、元徳二年(一三三〇)の史料にみえ、それ以前の開創である。寺名を称する郷もあった。寛文三年(一六六三)の再興。元徳二年一月一四日の阿蘇社造営料木第三箇度切符写(阿蘇家文書)に浄土寺とみえ、大山おおやま寺とともに阿蘇四宮造営のため、裏板一八枚と懸魚板一六枚および人夫六八人を割当てられており、阿蘇社神宮寺の末寺でもある。

浄土寺
じようどうじ

[現在地名]桑名市清水町

清水しみず町の中央にあり、袖野山西岸院と号し、浄土宗西山派。本尊阿弥陀如来。創始は永承四年(一〇四九)八月一六日に三崎みさきの海上より出現の仏像を安置したのに始まるという。この仏像は延命地蔵といわれ、秘仏。宝治元年(一二四七)に道観により再興された。慶長六年(一六〇一)に桑名藩主となった本多忠勝が、浄土寺の由緒を尋ねて菩提所とした。同年から始まった町割により、三崎の一つである加良州崎からすざきの地から移転し、同八年「正月八日浄土寺屋敷石ツキ同十四日柱立。

浄土寺
じようどじ

[現在地名]邑智町粕淵

江川と尻無しりなし川の合流点を望む高地にあり、一〇間四面の本堂をもつ。西原山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。開基は親鸞から面授口訣を受けた武蔵国麻布あざぶ(現東京都港区)善福ぜんぷく寺の元祖了海、開創は了海の実弟真海。真海は兄の命によって西国に下向、備後山南さんな(現広島県沼隈町)から佐波さわ郷に来て、徳治元年(一三〇六)佐波氏の請いにより一宇を建て、西原山浄土閣と名付けたのが当寺の始まりという(以上「浄土寺系図」浄土寺文書)

浄土寺
じようどじ

[現在地名]岡山市湯迫

湯迫ゆばの北方、たつくち山の南麓にある。湯迫山と号し、天台宗、本尊は薬師如来。報恩大師草創の備前四八ヵ寺の一つに数えられる。付近には堂本どうもと仁王堂におうどう塔の坂とうのさか院内いんない寺家谷じけだになどの地名が残り、かつての寺域が広大であったことをうかがわせる。寺伝によれば鎌倉時代初期、造東大寺勧進職重源による浄土教布教の備前における拠点寺院の一つとなった。境内の大湯屋跡は重源が施療のために建立したものといい、東大寺と刻印された瓦も出土している。文禄検地のときには、宇喜多秀家より寺領五〇石が安堵寄進された(「備前国四拾八ヶ寺領并分国中大社領目録写」金山寺文書)

浄土寺
じようどじ

[現在地名]赤坂町西軽部

笠寺かさじ山にある。山号笠地山、天台宗。本尊は薬師如来。縁起によると天平勝宝年中(七四九―七五七)報恩大師が建立した備前四八ヵ寺の一で、五番目の開基という。古くは笠寺と称し、元暦二年(一一八五)八月の金山寺住僧等解(金山寺文書)によれば、金山かなやま(現岡山市)の末寺で、免田一町があった。本堂には文明一二年(一四八〇)の棟札が残る。文禄四年(一五九五)の寺領検地の際には勧持坊・北ノ坊・宝生坊・東福坊・南泉坊・南ノ坊などがあった。同年宇喜多秀家は笠寺山に寺領一九石余を認めているが、内訳は本尊建立料・宝生坊に各四石、勧持坊・北ノ坊・南泉坊・南ノ坊にそれぞれ三石であった(同年二月一七日「下軽部笠寺寺領帳」浄土寺文書ほか)

浄土寺
じようどじ

[現在地名]津田町鶴羽

(二五九・八メートル)の東山麓にある。摩尼山宝珠院と号し、真言宗善通寺派。本尊如意輪観音。「讃岐国名勝図会」には「当寺開基未詳、天正明暦年間大に経営せり」とある。「御領分中寺々由来」によると、虚空蔵こくぞう(現大内町の与田寺)末寺で天正年中(一五七三―九二)再興、その後寛永年中(一六二四―四四)に村人が再興したと伝える。もと村の西端薬師堂やくしどうの辺りにあったもので、天正の兵火にかかり今の地に移転、薬師如来の石像がしばらく旧地に残されていたため薬師堂の地名が起こったという(津田町史)

浄土寺
じようどじ

[現在地名]大飯町石山 杉谷

真宗大谷派。金光山と号し、本尊は阿弥陀如来。もと真言宗で、応永一八年(一四一一)法慶が中興(このとき時宗となったか)、文明九年(一四七七)に慶道(教道とも、小浜妙光寺了宗の弟)が再興したという(大飯郡誌)。文永二年(一二六五)の若狭国惣田数帳写に記される「新城寺二反」が現浄土寺にあたるとする説がある。天正一六年(一五八八)二月一六日の浄土寺宛小笠原与十郎書状(当寺文書)によれば、石山いしやま村の内の山茶(山手米か)を伝右が「いしやま 浄土寺」へ寄進し、与十郎がこれを認めている。

浄土寺
じようどじ

[現在地名]小樽市銭函一丁目

浄土宗。極楽山と号する。本尊は阿弥陀如来。明治一八年(一八八五)小樽郡熊碓くまうす長昌ちようしよう寺末として布教道場が開設された。一世は上杉智観。同一九年に寺号公称、同二三年本堂落成(寺院沿革誌)。初期の総代は工藤竹松・大村駒太郎・渋谷福松・白浜園松などで、寺地は初め銭函ぜにばこ駅の裏手にあったという。浄土宗と無関係ながら薬師講・竜神講・観竜講などの信者も当寺を利用、竜神講では大漁祈願のため漁師らが集まった。

浄土寺
じようどじ

[現在地名]小浜市浅間

時宗。唯心山と号し、本尊は阿弥陀如来。草創の時期は不明だが、嘉暦元年(一三二六)五月六日に沙弥道光が念仏料田五段大を安堵している(当寺文書)。さらに建武四年(一三三七)八月七日の小槻秀氏・源久長連署渡状(同文書)によれば、当寺念仏田二町五段三一〇歩のうち半分を再寄進している。天文年中(一五三二―五五)には寄宿の信徒らの過失で焼失、そのため守護武田信豊はいっさいの寄宿を禁じ、「急度可令再興事肝要候」(「武田信豊書状」同文書)と再建への努力を促している。

浄土寺
じようどじ

[現在地名]吉舎町清綱

馬洗ばせん川の東方、旧石見路(赤名越)東の山際にある。浄土宗、山号は普応山、本尊は阿弥陀如来。応永一四年(一四〇七)南天山なんてんざん城主第三代和智実勝の開基。初め臨済宗、のち浄土宗に改宗。延宝八年(一六八〇)火災により数百メートル南の現在地に移った。本尊の木造阿弥陀如来坐像(像高九六センチ・膝張七五センチ、寄木造)は、胎内墨書銘から、本尊として第七代和智筑前守豊広が天文四年(一五三五)に寄進したもので、県指定重要文化財

浄土寺
じようどじ

[現在地名]広陵町大字安部

安部あべ集落の中央に位置する。仏谷山安養院と号し、浄土宗。創建については二説があり、天文三年(一五三四)細井戸忠行の開基とも、竹邑源秀が当麻たいま寺奥院(現奈良県當麻町)の真誉を開山として建立したとも伝える。

浄土寺
じようどじ

[現在地名]松浦市星鹿町 岳崎免

星鹿ほしか半島の北部にある。西方山往生院と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。西向山欣求院浄土寺と号し、平戸誓願せいがん寺末で、慶長一一年(一六〇六)源誉の開山という(蓮門精舎旧詞)

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改訂新版 世界大百科事典 「浄土寺」の意味・わかりやすい解説

浄土寺 (じょうどじ)

兵庫県小野市にある真言宗の寺。山号は極楽山。もと東大寺領播磨国加東郡大部荘(おおべのしよう)内の鹿野原に,俊乗房重源ちようげん)が播磨別所として開いた念仏別所。1190年(建久1)東大寺再興料所として大部荘を拝領した重源は,これを宋人鋳物師陳和卿に預け,甥の観阿,弟子の如阿を当地に派遣して播磨別所の建設に当たらせた。浄土堂は94年上棟,97年8月23日落慶で導師に解脱上人貞慶が招かれた。天竺様(大仏様)の代表的遺構である。向かいあう薬師堂も,もとは浄土堂と同じ3間3面の天竺様建築だったらしいが,1498年(明応7)に焼失して,現存のものは1517年(永正14)再建された。方5間,内外陣を分ける密教様式に改変され,それまで本堂であった浄土堂から,薬師堂が本堂に改められた。天竺様を基礎に和様,唐様を加えた折衷様式で重要文化財に指定されている。東面する浄土堂と西面する薬師堂の中央に放生池を掘り,鎮守八幡宮を南面させる特異な配置は重源の発想である。天正年間(1573-92)には豊臣秀吉が,慶長年間(1596-1615)には徳川家康が寺領朱印を寄せ,近世末まで寺領150石を有した。鎮守八幡宮本殿,拝殿はともに重要文化財。また快慶作の8尺の阿弥陀立像は1201年(建仁1)に迎講(むかえこう)の本尊としてつくられたもので,同時につくられた行道(ぎようどう)用の菩薩面25面(行道面)とともに重要文化財。そのほか真言八祖像,開山堂安置の重源上人座像,建久5年(1194)刻銘の銅製鉦鼓(しようこ),重源施入と推定される銅製五輪塔(いずれも重要文化財)などの文化財が多い。
執筆者: 浄土堂(国宝)は不断念仏を唱える別所の中心的建物で,現存する唯一の別所遺構。正面3間,側面3間の一重仏堂であるが,平面では各柱間が6mと広く,軸部は柱の中ほどから幾段にも肘木(ひじき)を差した独特の組物を構成し,軒隅のみ放射状にした隅扇垂木で軒反りのない宝形造本瓦葺き屋根をうける。開口部は桟唐戸(さんからと)をつり,貫や肘木鼻には特色ある繰形を用いる。内部は天井をはらず化粧屋根裏とし,大虹梁,太瓶束(たいへいづか),挿肘木による構架法をそのままみせた豪快な空間をあらわす。この天竺様とよばれる建築様式は,大仏殿を再建するために重源が中国から輸入したもので,この堂にもっとも純粋な姿を見いだせる。なお,内陣の円形仏壇上に立つ阿弥陀三尊像(国宝)は中尊5m余りの巨大な立像で,清新な気分にみちた快慶の代表作。堂と同時期の作と推定される。境内に勧請された八幡神社拝殿はすべて吹放ちで各所に大仏様木鼻を用い,室町前期の建築様式を示している。
執筆者:

浄土寺 (じょうどじ)

広島県尾道市にある真言宗の寺。山号は転法輪山。寺伝に聖徳太子の創建とある。鎌倉時代末に奈良西大寺叡尊の弟子,定証が中興したが,1325年(正中2)に全焼し,翌年から尾道の豪商道蓮・道性夫妻の発願で再建に着手,14世紀前半に現在の堂舎を含む七堂伽藍が整備された。これ以後は瀬戸の海運をになう尾道商人の太子信仰とその財力を背景に寺運をのばした。36年(延元1・建武3)東上の途中の足利尊氏が戦勝を祈って一族とともに本尊十一面観音(重要文化財)にささげた法楽和歌33首(重要文化財)は,奥に尊氏の手印があり,〈手印縁起〉とも呼ばれて有名である。現在の本堂と多宝塔は国宝,ほかに阿弥陀堂,山門,茶室露滴庵(ろてきあん),聖徳太子立像3体,定証起請文ほか中世古文書1巻,紺紙金銀泥法華経(天暦3年奥書),両界曼荼羅図(文保元年在銘)など多くの文化財を伝蔵する。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「浄土寺」の意味・わかりやすい解説

浄土寺【じょうどじ】

兵庫県小野市浄谷町にある高野山真言宗の寺。東大寺の播磨(はりま)別所として重源(ちょうげん)が建立。中心となる浄土堂は1192年建立したもので,大仏様の最も純粋な遺構として重要。本尊は快慶作と伝える阿弥陀三尊像で,宋画を手本として作ったといわれている。他に本堂(薬師堂),本殿,拝殿等鎌倉期から室町期の建築,1234年の像内銘をもつ重源上人座像などがある。
→関連項目大部荘小野[市]

浄土寺【じょうどじ】

広島県尾道市にある真言泉涌寺派の大本山。本尊十一面観音。聖徳太子の創立と伝え,定澄の発願で1306年建立供養,1325年火災で焼失したが,直ちに再興に着手し,1327年―1345年ころに完成。現存の本堂(観音堂)・多宝塔(いずれも国宝),阿弥陀堂(重要文化財)は再建当時のもの。本堂は和様を基調として,大仏様を加味した建築で,折衷様建築の最古の例。柄香炉を手にした聖徳太子の立像が開山堂に安置されている。伏見城より移築したと伝える三畳台目の茶室露滴庵がある。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「浄土寺」の意味・わかりやすい解説

浄土寺
じょうどじ

広島県尾道市にある広島真言宗教団大本山。聖徳太子の創立と伝えられる。僧定証が荒れはてていた古寺を再興し,嘉元4 (1306) 年に供養したが,正中2 (25) 年に焼け,その後まもなく再建された。本堂は嘉暦2 (27) 年の再建,大仏様を多く用いた折衷様建築で国宝。多宝塔は元徳1 (29) 年の再建,大規模で形がよく,細部もすぐれており国宝。このほか阿弥陀堂および中国地方には珍しい茶室 (露滴庵) がある。平安時代前期の『十一面観音像』,鎌倉時代の『聖徳太子像』などを蔵する。

浄土寺
じょうどじ

兵庫県小野市にある真言宗の寺。東大寺の伽藍を復興した重源 (ちょうげん) が各地に建てた別所の一つ。現在,浄土堂と薬師堂とが東西に相対して建っている。浄土堂は建久3 (1192) 年創建当時の建物で国宝に指定され,大仏様のうちで最も宋風が濃く,空間構成も充実した傑作である。快慶作と伝えられる『阿弥陀三尊像』 (国宝) を安置する。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「浄土寺」の解説

浄土寺
じょうどじ

広島県尾道市東久保町にある真言宗浄土寺派の本山。聖徳太子の建立といい,鎌倉末期には高野山領備後国太田荘の預所淵信が別当だったが,1298年(永仁6)奈良西大寺叡尊の弟子定証が荒廃していた当寺の再興を発願,定証に寄進されて西大寺末となる。1325年(正中2)焼失するが復興。南北朝期には後醍醐天皇の勅願寺となり,足利尊氏も当寺に備後国の利生塔をおいた。

浄土寺
じょうどじ

兵庫県小野市浄谷町にある真言宗の寺。極楽山と号す。東大寺領であった播磨国大部(おおべ)荘内の破壊状態の古寺を重源(ちょうげん)が1カ所に集めて薬師堂として造り直し,新たに浄土堂などを加えて一寺とした。その時期は1192~94年(建久3~5)頃とされる。以後浄土信仰の霊地として隆盛した。

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デジタル大辞泉プラス 「浄土寺」の解説

浄土寺〔広島県〕

広島県尾道市にある寺院。真言宗泉涌寺派の大本山。山号は転法輪山(てんぽうりんざん)、院号は大乗院。聖徳太子の創建と伝わる。足利尊氏の戦勝祈願の地として知られる。本尊の十一面観世音菩薩像(重文)をはじめ、文化財を多数保有。庭園は国の名勝、鎌倉時代に建てられた本堂・多宝塔は国宝。

浄土寺〔愛媛県〕

愛媛県松山市にある真言宗豊山派の寺院。山号は西林山、院号は三蔵院。本尊は釈迦如来。天平勝宝年間(749~757)の創建と伝わる。四国八十八ヶ所霊場第49番札所。本堂は国の重要文化財に指定。

浄土寺〔兵庫県〕

兵庫県小野市にある寺院。鎌倉時代の創建。浄土堂(阿弥陀堂)と堂内の阿弥陀三尊立像は国宝、薬師堂は国の重要文化財に指定されている。

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旺文社日本史事典 三訂版 「浄土寺」の解説

浄土寺
じょうどじ

兵庫県小野市浄谷 (きよたに) 町にある真言宗の寺
鎌倉初期,東大寺再建の功労者俊乗坊重源が,東大寺播磨別所として創建。その浄土堂(阿弥陀堂)は東大寺南大門とともに大仏様の遺構で,国宝。仏像などに重要文化財が多い。

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世界大百科事典(旧版)内の浄土寺の言及

【大部荘】より

…治承・寿永の内乱で東大寺が焼かれると,当荘は90年(建久1)東大寺大勧進俊乗房重源(ちようげん)に与えられ,重源の申請で宋人の鋳物師陳和卿(ちんなけい)にあてがわれた。重源は荘内に播磨別所としての浄土寺を建立し,甥の観阿を住まわせた。浄土寺浄土堂は94年10月上棟,97年8月に解脱(げだつ)上人貞慶(じようけい)を導師に迎えて落慶供養をしたもので,天竺様建築の遺構として有名,安置する本尊阿弥陀三尊像は快慶作,ともに国宝。…

※「浄土寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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