海部俊樹内閣(読み)かいふとしきないかく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「海部俊樹内閣」の意味・わかりやすい解説

海部俊樹内閣
かいふとしきないかく

平成初期、海部俊樹首班として組織された第一次、二次にわたる自由民主党内閣

[編集部]

第一次

(1989.8.10~1990.2.28 平成1~2)
宇野宗佑(そうすけ)内閣が首相自身の女性問題と参議院選挙の敗北でわずか2か月で倒れたあと誕生した、海部俊樹を首班とする内閣。「公正で心豊かな社会の実現」などを唱えたが、最小派閥出身で党三役の経験もなく、発足当初から「緊急避難政権」などと軽量ぶりが指摘された。しかし、1990年2月の衆議院選挙で安定多数を獲得、自由民主党を復調させた。

[橋本五郎]

第二次

(1990.2.28~1991.11.5 平成2~3)
衆議院選挙勝利を受けて成立。日米首脳会談、ヒューストン・サミットなどをこなし、1990年夏には田中角栄内閣を上回る歴代最高の支持率を記録した。しかし、1990年8月に勃発(ぼっぱつ)した湾岸危機に際しての多国籍軍への支援、海上自衛隊の掃海艇派遣、国連平和維持活動(PKO)協力などで指導力不足が露呈政治改革でも小選挙区比例代表並立制導入法案を提出したが、野党だけでなく自由民主党内の反対も強く廃案になった。これに反発した首相は衆議院解散で事態打開を図ろうとしたが、最大支持基盤の竹下派が反対し「海部再選」もついえた。指導力不足が問われ続けながら、得意のパフォーマンス国民からは終始高い支持率を得るというユニークな政権だった。

[橋本五郎]

『毎日新聞政治部著『検証 海部内閣――政界再編の胎動』(角川文庫)』

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百科事典マイペディア 「海部俊樹内閣」の意味・わかりやすい解説

海部俊樹内閣【かいふとしきないかく】

(1)第1次。1989年8月10日〜1990年2月28日。自由民主党単独内閣。宇野宗佑(そうすけ)の退陣をうけて海部俊樹が党総裁に選出され,総理大臣に就任(与野党逆転の参議院では日本社会党土井たか子を指名)。就任時のキャッチフレーズは〈政治への信頼の回復〉。1989年12月参議院本会議で決算不承認を決定(戦後初)。1990年2月18日の総選挙で自民党が勝利。(2)第2次。1990年2月28日〜1991年11月5日。自民党単独内閣。1990年8月イラク軍がクウェートに侵入,湾岸地域の緊張が高まる。こうした動きのなか,10月政府,自民党は〈国連平和協力法案〉を国会に提出したが,野党の反対にあい廃案となる。1991年1月米,多国籍軍のイラクへの攻撃が始まり(湾岸戦争),政府,自民党は戦争支援策として多国籍軍への90億ドル援助を決定,4月には自衛隊の掃海艇をペルシア湾に派遣(戦後初の海外派遣)。海部政権成立時からの内政面の最大課題は〈政治改革〉で,海部首相は〈不退転の決意〉で〈政治改革法案〉を国会に提出したが,1991年9月会期切れを前に衆議院特別委で廃案とすることが決定され,内閣総辞職に追い込まれた。後継は宮沢喜一

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「海部俊樹内閣」の解説

海部俊樹内閣
かいふとしきないかく

自民党の海部俊樹を首班とする内閣。1989年(平成元)参議院選挙大敗で退陣した宇野内閣の後に成立。海部は少数派閥の河本派出身だったため,党・政府内での指導力は弱く,また参議院の多数を野党に奪われている状況下での政治運営は困難をきわめた。

1第1次(1989.8.10~90.2.28)。リクルート・スキャンダルの残した政治不信の払拭をねらいとする政治改革を優先課題とし,清新なイメージで内閣支持率を増大させた。

2第2次(1990.2.28~91.11.5)。衆議院選挙での自民党勝利を背景に発足したが,懸案の政治改革法案を成立させることができなかった。国際的には天安門事件以後の対中国政策,ソ連圏崩壊後の旧社会主義国への経済支援,湾岸危機に際しての対イラク制裁など重要問題が続いた。とくに湾岸危機で明確な政策をうちだせず,政府提出の国連協力法案は,大きな論議のなかで廃案となった。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

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