渋川春海(読み)シブカワシュンカイ

デジタル大辞泉 「渋川春海」の意味・読み・例文・類語

しぶかわ‐しゅんかい〔しぶかは‐〕【渋川春海】

[1639~1715]江戸前期の暦学者。京都の人。安井算哲の子。はじめ安井算哲二世を名乗るが、のちに改姓。貞享元年(1684)平安時代以来の宣明暦を改定した貞享暦が採用され、初の幕府天文方に就任。しぶかわはるみ

しぶかわ‐はるみ〔しぶかは‐〕【渋川春海】

しぶかわしゅんかい(渋川春海)

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精選版 日本国語大辞典 「渋川春海」の意味・読み・例文・類語

しぶかわ‐はるみ【渋川春海】

江戸初期の暦算天文学者。京都の人。幕府碁方安井算哲の長男。本名算哲。通称六蔵・助左衛門。社号は土守霊社。春海(「しゅんかい」とも)は字(あざな)。のち、渋川と改姓。家業を継いで幕府の碁方となり、また、宣明暦を改め貞享暦を作り天文方になった。著書「天文瓊統(けいとう)」「日本長暦」など。寛永一六~正徳五年(一六三九‐一七一五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「渋川春海」の意味・わかりやすい解説

渋川春海
しぶかわはるみ
(1639―1715)

江戸時代の天文暦学者。幕府の碁所安井算哲(さんてつ)(1590?―1652)の子として京都に生まれる。幼名六蔵、のち父の名を継ぎ算哲と称し、1692年(元禄5)命により、束髪して助左衛門と改称。字(あざな)は順正(のぶまさ)、広く春海をもって知られる。諱(いみな)は都翁(つつち)、号は新蘆(しんろ)。初め安井姓を名のったが、のち保井を用い、晩年には出身地にちなんで渋川を用いた。家業を継ぎ幕府碁所を勤めた。岡野井玄貞(げんてい)(生没年不詳)、松田順承に師事して暦算を学び、授時暦に通じた。21歳のとき西国諸州の緯度を測定、表を立て、天体の運行を測り、授時暦に範をとって大和暦(やまとれき)を作製した。当時用いられていた宣明(せんみょう)暦は施行八百有余年に及び、天象と2日も差が出ていた。改暦を請うこと三度、ようやくいれられて1684年(貞享1)10月29日大和暦が採用され、貞享暦(じょうきょうれき)と名を賜り翌年から施行された。功により碁所をやめて幕府初めての天文方に任ぜられた。家族を率いて江戸麻布(あざぶ)に居を移し、観測に従事し、本所二つ目に地を拝領、のち駿河台(するがだい)に地を賜り天文台を設けた。従来の七十二候を改めて新制七十二候をつくった。『天象列次之図』に次いで『天文分野之図』や、従来の中国の星座と新たに自ら選定した61座308星の観測に基づいて作製し、子の昔尹(ひさただ)(1683―1715)の名で刊行した『天文成象』がある。春海の天文学を集大成した『天文瓊統(けいとう)』や『日本長暦』、『日本書紀暦考』その他多くの著述がある。春海作の渾天儀(こんてんぎ)、天球儀地球儀も現存する。儒学神道(しんとう)、有職故実(ゆうそくこじつ)にも通じた。77歳で没したが、没後吉田家から土守霊社の諡(おくりな)を贈られた。品川東海寺に葬る。

[渡辺敏夫]

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朝日日本歴史人物事典 「渋川春海」の解説

渋川春海

没年:正徳5.10.6(1715.11.1)
生年:寛永16.閏11(1639)
江戸中期の天文暦学者。幕府碁方安井算哲(初代)の子として京都に生まれた。幼名は六蔵といったが,元禄5(1692)年助左衛門と改めた。字を順正,諱は都翁,新葦と号した。父の死に当たり,襲名して家職を継いで碁所に勤め,2代目算哲と称している。のち保井,さらに渋川と姓を改める。名の方は「はるみ」と読むらしいが,ふつうには「しゅんかい」で通っている。日本では古来中国の暦を採用していたが,初めて日本人の手になる独自の暦法(貞享暦)を作った人物として著名。その功により貞享1(1684)年初の天文方となる。 独自といっても大したことはなく,大部分は元の授時暦の引き写しである。太陽や月の中心差などに多少の手直しを行ったが,はたして改良か改悪かいちがいにいえない。その手直しも,あまり理論的根拠のあるものではない。授時暦では中心差を各象限ごとに3次の代数式で表現するが,貞享暦も授時暦を踏襲し,ただ係数だけ変えて,象限のつなぎ目のカーブを滑らかにしただけである.それでも観測に根拠を持つ中心差の最大値は,授時暦よりも現在値に近いものをつかっているから,改良であったといえる。あえて独自なものといえば,日食の予報のときに,中国と日本の経度差を考慮に入れたことだけであろう。中国と日本では経度,緯度が違うから,当然授時暦のやり方を修正しなければならない。春海は経度についてはそれだけ時間をずらして修正したが,緯度についてはそれも影響するといいながらも,修正の仕方が分からなかった。 理論的には必ずしも一流ではなかった渋川春海が,本邦最初の改暦を実現できたのは,なぜか。そもそも改暦というものは科学上の問題よりも政治的問題である。特に本邦最初ということになると,慣例にないからという理由だけで反対される。これまで中国の暦を採用していたのだから,そのままでよい,という中国派の儒者のいうことを押さえねばならない。彼が幕府の碁所に勤める父のあとを継いで碁所に勤め,幕府の要人を知っており,また京都の陰陽頭安倍泰福から土御門神道その他の流の神道を学び,朝廷とも近かった,という人間関係をフルに使って,初めて達成された政治的事業である。並みの学者でできることではない。

(中山茂)

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改訂新版 世界大百科事典 「渋川春海」の意味・わかりやすい解説

渋川春海 (しぶかわはるみ)
生没年:1639-1715(寛永16-正徳5)

中国からの輸入暦法を,ただ機械的に計算して毎年の暦を作っていた日本において,みずから観測を行い,暦理を理解し,さらに新暦法を開発した最初の天文暦学者。姓は初め安井,のちに保井を用いたが,1702年(元禄15)より渋川を名のることを願いでて許された。幼名は六蔵,のちに助左衛門と改めた。字は順正(のぶまさ),諱(いみな)は都翁(つつち),号を新盧といい,春海の名は《伊勢物語》の〈雁鳴きて菊の花さく秋はあれど春の海べにすみよしの浜〉からつけたという。将軍家碁所4家の一つ安井家の子として生まれ,わずか14歳で父の後を継ぎ安井算哲と称して碁所に勤めた。暦学を松田順承,岡野井玄貞に,和漢の書を山崎闇斎に学んでその秀才ぶりをうたわれたことは,囲碁の素養とともに幕閣の有力者である会津の保科正之や水戸光圀らの知遇を得る助けとなり,のちの改暦の成功を招いた。当時用いられていた宣明暦法は800余年も前に唐で採用された暦法で,日月食の予報法も粗雑で,さらに暦の季節は天の運行に2日も遅れており改暦の必要は迫っていた。春海は元の授時暦をもって宣明暦に変えるよう進言したが,授時暦による日食予報が失敗したため改暦は中止された。春海は研究を重ね授時暦を日本の地にあうように改良し,これを大和暦法と名付け,その採用を請い,1684年(貞享1)11月,ついにこの案が採択され貞享暦として翌年から施行された。この功績により春海は従来の家禄30石の碁所を免ぜられ,100俵(采地の100石に当たる)を受けて天文職に任ぜられ,のちには250俵まで加俸された。春海は古来よりの暦日を復元した《日本長暦》や《天文瓊統(けいとう)》その他の著述とともに天球儀や渾天(こんてん)儀,星図などの製作も行っている。
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百科事典マイペディア 「渋川春海」の意味・わかりやすい解説

渋川春海【しぶかわはるみ】

暦学者。幕府の碁所の家に生まれ,14歳でその職を継いで安井(のち保井を用いる)算哲と称す。1702年(元禄15年)より渋川を名乗ることを願い出て許された。幼時より暦学・数学を学んでいた春海は,当時用いられていた宣明暦に誤りが多いのを痛感,授時暦を改良し独自の暦を考案,3度朝廷に改暦を上奏し,ついに貞享1年(1684年)に採用された。これが貞享暦で,日本人の手になる最初の暦である。同時に七曜暦を復興。貞享1年新設された天文方に任ぜられ(以後渋川家が世襲)天文・暦学の研究に専念。年代学・古暦に関する著書も多く,また中国伝来の星座のほかに自ら選定した61座308星を加えた星図《天文成象図》を子昔尹(ひさただ)の名で出版した。
→関連項目授時暦天文方二百十日

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「渋川春海」の解説

渋川春海 しぶかわ-はるみ

1639-1715 江戸時代前期-中期の暦算家。
寛永16年閏(うるう)11月3日生まれ。囲碁棋士の父安井算哲の死後,安井(のち保井)算哲2世を称し,御城碁をつとめる。岡野井玄貞(げんてい),池田昌意(まさおき)に暦学をまなぶ。貞享(じょうきょう)元年(1684)従来の宣明(せんみょう)暦にかわって自作の貞享暦が採用され,その功により幕府天文方となる。のち渋川と改姓。天球儀,地球儀,百刻環などをつくった。正徳(しょうとく)5年10月6日死去。77歳。平成24年囲碁殿堂入り。京都出身。名は都翁(つつち)。字(あざな)は別に順正。通称は助左衛門。号は新蘆。著作に「天文瓊統」「日本長暦」など。

渋川春海 しぶかわ-しゅんかい

しぶかわ-はるみ

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「渋川春海」の解説

渋川春海
しぶかわはるみ

1639.閏11.-~1715.10.6

名は「しゅんかい」とも。江戸前期の天文暦学者。幕府碁師安井算哲の子。幼名は六蔵,のち助左衛門。京都生れ。姓はのちに保井,1702年(元禄15)渋川と改めた。14歳で父の跡を継いで碁所(ごどころ)を勤め,2代算哲と称した。1684年(貞享元)宣明暦改暦を建議,新暦(貞享暦)が採用され,翌年から施行された。初代の幕府天文方に任じられ代々世襲となる。著書に「日本長暦」「天文瓊統(けいとう)」などがあり,天球儀・渾天儀(こんてんぎ)・星図の製作も行った。

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旺文社日本史事典 三訂版 「渋川春海」の解説

渋川春海
しぶかわはるみ

1639〜1715
江戸中期の天文学者・暦学者
京都の人。「しゅんかい」とも読み,安井(保井)算哲ともいい,晩年に渋川と改姓。幕府の碁師の家に生まれ,初め家業を継いだが,岡田章意らに天文暦学を学んだ。平安時代以来使用されてきた宣明 (せんみよう) 暦に誤りのあることを発見,中国元代の授時暦をもととして日本人による最初の暦貞享 (じようきよう) 暦を1684(貞享元)年に完成し,幕府に採用された。初代の幕府天文方となった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「渋川春海」の意味・わかりやすい解説

渋川春海
しぶかわしゅんかい

[生]寛永16(1639)
[没]正徳5(1715)
江戸時代の暦学者。幕府の棋所に出仕し,父の名を取って初めは安井算哲 (さんてつ) といった。宣明暦 (せんみょうれき) の誤差を指摘して,貞享1 (1684) 年 10月貞享暦 (じょうきょうれき) をつくり,同年 12月幕府の天文方となる。

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世界大百科事典(旧版)内の渋川春海の言及

【暦】より

…中国暦法の最高の傑作といわれる元の授時(じゆじ)暦の研究が盛んになるとともに,漢訳ながらも西洋天文学を伝える《天経或問(てんけいわくもん)》という本ももたらされた。これらの研究を進めるとともにみずからも観測を行い,初めて自国の暦法貞享(じようきよう)暦を作るのに成功したのが渋川春海であった。彼はその功績によって最初の天文方(てんもんかた)に登用された。…

【授時暦】より

…授時暦は江戸期の日本でさかんに研究され,建部賢弘の《授時暦諺解》が有名である。渋川春海は授時暦によって貞享暦(1685)を作り,麻田剛立は消長法を一般化させた。【橋本 敬造】。…

【長暦】より

…長い年月にわたっての暦日をまとめたものを長暦という。初めての幕府天文方に任ぜられた渋川春海は,《日本書紀》にある神武天皇以来貞享1年(1684)に至る暦日,すなわち全年の毎月の朔を計算し,その干支,月の大小,閏月などを記した《日本長暦》(1677)を著した。これが最初に著された長暦である。…

【天文台】より

…そのとき以来,国家の名で暦が編集され天象観測も実施されていたことが残された暦や多くの観測記録から推定されるが,国家天文台の状況をしるした文献は見つかっていない。下って江戸時代,貞享暦を作った渋川春海が幕府から天文方を委嘱され,元禄年間の1689年,本所に天文台用地を与えられた。その後幕府の天文台は1703年に駿河台へ移り,46年には神田佐久間町に,65年には牛込袋町に,82年には浅草片町裏へと何度も移設されている。…

【本因坊】より

…しかし8世知得仙知(1776‐1838)は,11世本因坊元丈と生涯を通じての好敵手として総局数77局を戦い,戦績はまったく互角で,それぞれ名人の実力を有しながら,互いにゆずり合って準名人のままで終わったと伝えられる。また1世算哲の子で1683年(天和3)まで御城碁(おしろご)を務めた渋川春海は暦学者として有名。林家は本因坊算砂時代の高手鹿塩利賢(かしおりげん)に学んだ林門入斎(もんにゆうさい)(1583‐1667)に発し,代々門入を名のった。…

※「渋川春海」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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