渋沢 栄一(読み)シブサワ エイイチ

20世紀日本人名事典 「渋沢 栄一」の解説

渋沢 栄一
シブサワ エイイチ

明治・大正期の実業家,財界人,子爵 第一国立銀行頭取。



生年
天保11年2月13日(1840年)

没年
昭和6(1931)年11月11日

出生地
武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市)

別名
幼名=栄二郎,号=青淵

経歴
武蔵国榛沢の郷士の生まれ、漢学を学び家業に従事したのち、江戸に出て尊攘派志士として活動。横浜の異人館焼討ちを計画するが果さず。のち一橋慶喜に仕え、慶応2年慶喜の将軍就任とともに幕臣となる。3年慶喜の弟昭武随行して渡欧、西欧の近代的産業設備や経済制度を学ぶ。明治元年帰国し、静岡に日本最初の株式会社・商法会所を設立。2年大蔵省に出仕し、井上馨とともに財政制度の確立に努めたが、6年退官し第一国立銀行を設立、8〜大正5年頭取。この間、王子製紙大阪紡績、東京人造肥料、東京瓦斯、日本鉄道など500余の会社を設立し経営、また東京商法会議所(のちの東京商業会議所)、東京銀行集会所、東京手形交換所などを組織、大正5年に引退するまで実業界・財界の指導的役割を果し、“日本資本主義の父”と呼ばれた。引退後は東京市養育院、東京商法講習所(現・一橋大学)など各方面の社会公共事業に力をそそいだ。明治33年男爵、大正9年子爵に列せらる。著書に「つねに刺激を出し続ける人になれ!」「人生急所を誤るな!」など。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

知恵蔵mini 「渋沢 栄一」の解説

渋沢 栄一

実業家。1840(天保11)年2月13日、現在の埼玉県深谷市で裕福な農家に生まれる。実家の畑仕事や養蚕を手伝いながら、若いころより本格的に論語を学ぶ。離郷して一橋慶喜(のちの江戸幕府15代将軍、徳川慶喜)に仕え、一橋家家政の改善などに尽力した。27歳のとき、慶喜の実弟・昭武とともにパリ万博を訪れて欧州諸国の近代的な政治や経済、文化のありようについて造詣を深める。帰国して大蔵省に勤務した後、実業家として生涯に約500の企業設立や運営に関わり、約600の教育機関・社会公共事業の支援および民間外交に貢献した。関わった企業・組織には、日本初の銀行である第一国立銀行(現みずほ銀行)や、日本郵船、東京電力、田園都市(現・東京急行電鉄)、一橋大学、東京証券取引所などがある。1931年11月11日に91歳で死去した。2024年に刷新される1万円札の肖像画に起用される予定。

(2020-2-18)

出典 朝日新聞出版知恵蔵miniについて 情報

367日誕生日大事典 「渋沢 栄一」の解説

渋沢 栄一 (しぶさわ えいいち)

生年月日:1840年2月13日
明治時代-昭和時代の実業家;財界人;子爵
1931年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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