源範頼(読み)みなもとののりより

精選版 日本国語大辞典 「源範頼」の意味・読み・例文・類語

みなもと‐の‐のりより【源範頼】

平安末期から鎌倉初期の武将。義朝の六男。母は遠江池田宿の遊女。蒲冠者(かばのかんじゃ)と呼ばれた。頼朝挙兵に参じ、弟義経とともに西上して、義仲や平氏追討の一方の将となった。のち異心の疑いにより伊豆修善寺で殺された。建久四年(一一九三)没。

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デジタル大辞泉 「源範頼」の意味・読み・例文・類語

みなもと‐の‐のりより【源範頼】

[?~1193]平安末期・鎌倉初期の武将。義朝の六男。通称蒲冠者がまのかじゃ。兄頼朝の挙兵を助け、弟義経とともに源義仲や平氏追討に参加。のち、頼朝に追われ、伊豆修禅寺で殺された。

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朝日日本歴史人物事典 「源範頼」の解説

源範頼

没年:建久4.8(1193)
生年:生年不詳
平安末・鎌倉初期の武将。源義朝の6男(一説に5男)。母は 遠江国池田宿(静岡県豊田町)の遊女。池田付近の蒲御厨(浜松市)で生まれたので蒲冠者と称し,京都の中級貴族藤原(高倉)季範に養育され,その諱の1字を得て範頼と名乗ったと思われる。治承4(1180)年異母兄の頼朝が挙兵して程なくその麾下に参じたとみえ,元暦1(1184)年の源(木曾)義仲追討戦や摂津一の谷の対平氏戦に,異母弟義経と共に頼朝代官・一方の大将軍として出陣,勝利を収め,同年6月には頼朝の推挙により参河守に任じた。8月平氏追討のため再度出征したものの,戦いは長期化して進展なく,ようやく義経の参戦・攻撃を得て,文治1(1185)年3月長門壇の浦に平氏一門を壊滅させえた。範頼は九州に在って戦後処理を行ったのち帰東,頼朝と対立・没落した義経とは対照的に,常に頼朝に従順,異心なきを誓ったが,やがて建久4(1193)年曾我兄弟の仇討ち事件への対処方が疑われ,伊豆修善寺(異説もある)で幽殺された。<参考文献>野口実「源範頼の軌跡」(『鎌倉』65号)

(杉橋隆夫)

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改訂新版 世界大百科事典 「源範頼」の意味・わかりやすい解説

源範頼 (みなもとののりより)
生没年:?-1193(建久4)

平安末~鎌倉初期の武将。源義朝の六男,頼朝の弟。母は遠江池田宿の遊女。同国蒲御厨(かばのみくりや)に生まれたところから蒲冠者(かばのかじや)と呼ばれた。兄頼朝の挙兵後その部将となり,1184年(元暦1)弟義経とともに源義仲を破り,ついで一ノ谷に平氏を討って三河守に任ぜられる。その後,平氏追討のため中国から九州に遠征,平氏滅亡後も九州の経営に当たった。93年8月頼朝により伊豆修禅寺で殺された。子孫吉見氏がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「源範頼」の意味・わかりやすい解説

源範頼
みなもとののりより
(?―1193)

鎌倉初期の武将。源義朝(よしとも)の六男。三河(みかわ)国(愛知県)蒲御厨(かばのみくりや)に生まれたので「蒲冠者(かばのかんじゃ)」とよばれた。幼時、藤原範季(のりすえ)の養子となる。兄頼朝(よりとも)が平氏追討の兵をあげたとき、頼朝に属してその部将となる。1183年(寿永2)弟義経(よしつね)とともに源義仲(よしなか)を京都に討ってこれを倒した。続いて一ノ谷に平氏を破り、戦後、三河守(かみ)となった。やがてふたたび平氏追討のため中国から九州に遠征して、85年(文治1)平氏滅亡後、九州の経営にあたった。範頼は、頼朝・義経の衝突、義経の運命をみて、頼朝に対して努めて従順な態度をとった。しかし頼朝は範頼を疑い、建久(けんきゅう)4年8月、これを捕らえて伊豆修禅寺(しゅぜんじ)に幽し、ついにこれを殺した。範頼の子孫は吉見(よしみ)氏を称し、南北朝ごろには能登(のと)(石川県)の守護となっている。

[多賀宗隼]

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百科事典マイペディア 「源範頼」の意味・わかりやすい解説

源範頼【みなもとののりより】

平安末〜鎌倉初期の武将。源義朝の6子。母は遠江(とおとうみ)国池田宿の遊女。同国蒲御厨(かばのみくりや)で生まれたため蒲冠者(かばのかじゃ)と呼ばれた。兄頼朝の挙兵に呼応,弟義経とともに西国で平氏追討の任につき,平氏滅亡後は九州の経営に当たったが,頼朝の嫌疑を受け伊豆修禅寺で殺された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「源範頼」の意味・わかりやすい解説

源範頼
みなもとののりより

[生]?
[没]建久4(1193).8? 伊豆
鎌倉時代の武将。義朝の第6子。頼朝の弟。妻は安達盛長の娘。蒲冠者と称した。従五位下。三河守。頼朝の命令のもとで,弟義経とともに西国への遠征隊の総指揮官となった。寿永3 (1184) 年1月木曾義仲を攻めて入京。引続き平氏と戦って西進し,同年2月の摂津国一ノ谷の戦いに勝って鎌倉に帰った。元暦1 (84) 年8月平家追討軍の大将として鎌倉を発し,同2年3月の平氏滅亡にいたるまで西国各地を転戦した。建久4 (93) 年8月頼朝から叛意ありと疑われて鎌倉から伊豆国に移され,次いで殺された。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「源範頼」の解説

源範頼
みなもとののりより

生没年不詳。鎌倉前期の武将。義朝の六男。母は遠江国池田宿の遊女。通称蒲(かば)冠者。平治の乱で父が敗死したのち,九条兼実の家司(けいし)藤原範季の養子となり,扶持をうける。妻は安達盛長の女。異母兄源頼朝の挙兵に参加し,配下の将として源義広や平氏の追討に東奔西走し,頼朝の推挙で三河守となる。武蔵国吉見・相模国当麻などを領するが,1193年(建久4)曾我兄弟仇討事件で頼朝暗殺が誤り伝えられると,鎌倉留守居役だった範頼の不用意な発言が問題となり,8月17日に伊豆国に流され,その直後に殺されたらしい。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「源範頼」の解説

源範頼 みなもとの-のりより

?-? 平安後期-鎌倉時代の武将。
源義朝の6男。母は遠江(とおとうみ)(静岡県)池田宿の遊女。兄源頼朝にしたがい,弟義経とともに源義仲を追討。さらに一ノ谷で平氏をやぶり,山陽道をすすむ。のち九州を鎮定。建久4年(1193)8月頼朝に謀反の疑いで伊豆(いず)に流され,以後の消息は不明。通称は蒲冠者。

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旺文社日本史事典 三訂版 「源範頼」の解説

源範頼
みなもとののりより

生没年未詳
平安末期・鎌倉初期の武将
義朝の第6子。頼朝の異母弟。蒲冠者 (かばのかんじや) ともいう。頼朝の命により弟義経とともに源義仲を討ち,平氏追討に功績があった。1193年頼朝の疑いをうけ,伊豆に流された。

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