瀬戸口 藤吉(読み)セトグチ トウキチ

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「瀬戸口 藤吉」の解説

瀬戸口 藤吉
セトグチ トウキチ


職業
海軍軍楽特務少尉 指揮者 作曲

肩書
海軍軍楽隊楽長

旧名・旧姓
大山 藤吉

生年月日
慶応4年 5月10日

出身地
薩摩国(鹿児島県)

経歴
明治13年海軍の東海鎮守府に勤務していた叔父・大山軍八の養子となり、郷里の鹿児島を離れる。15年軍楽隊に入隊し、楽長の中村祐庸、楽師の吉本光蔵から薫陶を受けた。19年三等楽手、21年二等楽手、22年一等楽手を経て、27年軍楽師。鳥山啓の詞に曲を付けるように田中穂積楽長から命を受け、29年10月15日奇しくも長女の誕生の日と同日に、その曲「軍艦」が完成。30年1月公の場で初演され、33年1月には同曲を吹奏楽による行進曲として改作して「軍艦行進曲(軍艦マーチ)」が完成、4月神戸での観艦式で初演された(歌詞のあるものが「軍艦」、歌詞のないものが「軍艦行進曲」となる)。6月叔父との養子縁組を解き、瀬戸口姓に復した。この間、中村、吉本と共に海軍軍楽理的教科書の編纂委員を務める。39年米国殖民三百年記念万国陸海軍式典に楽長として派遣され、米国やヨーロッパ各国を訪問。その際に交響管弦楽団の演奏を聴いてその必要性を強く感じ、軍楽隊を管弦楽団編成とするために尽力、41年実現にこぎ着けた。同年初めて日比谷での公園奏楽を指揮した。44年英国国王の戴冠式に軍楽隊を率いて参列。大正6年海軍軍楽特務少尉で待命となり、7年予備役に編入。退役後は少年鼓笛隊の育成や、大学などでの管弦楽の指導に力を注いだ。この間、軍歌「敷島艦の歌」「日本海夜戦」「大和心は忘れねど」「艦船勤務」や、童謡「朝の港」「夢の汽車」「瑞穂国」「聖夜」「蟻の小径」「キューピー」「日の丸」などを作曲した。昭和12年内閣情報部から「愛国行進曲」が公募されると、先に第1位になった詞に曲をつけ、約1万曲に及ぶ作曲応募の中から選ばれて健在を示し、話題を呼んだ。著書に「管絃楽器の取扱法」がある。平成11年郷里の垂水市により瀬戸口藤吉翁記念行進曲コンクールが創設された。

受賞
大日本音楽協会内閣総理大臣賞〔昭和13年〕

没年月日
昭和16年 11月8日 (1941年)

伝記
行進曲「軍艦」百年の航跡―日本吹奏楽史に輝く「軍艦マーチ」の真実を求めて 谷村 政次郎 著(発行元 大村書店 ’00発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「瀬戸口 藤吉」の解説

瀬戸口 藤吉
セトグチ トウキチ

明治・大正期の指揮者,作曲家 海軍軍楽隊楽長。 「軍艦マーチ」の作曲者。



生年
慶応4年5月10日(1868年)

没年
昭和16(1941)年11月8日

出身地
鹿児島県垂水市

経歴
明治15年に海軍軍楽隊に入隊し、作曲を始め、30年軍楽師時代、鳥山啓作詞「守るも攻むるも」の「軍艦」を作曲。33年「軍艦行進曲(軍艦マーチ)」と改作、春の神戸沖観艦式で初演された。また翌年「敷島艦」を作った。44年イギリス国王の戴冠式に軍楽隊を率いてヨーロッパ各地で演奏、大正3年海軍省が「海軍軍歌」を制作した時編纂に当たり「日本海海戦」「艦船勤務」を発表。「愛国行進曲」は昭和12年、70歳の時の作で、病気を押して書き上げた。他に「野球行進曲」など。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

367日誕生日大事典 「瀬戸口 藤吉」の解説

瀬戸口 藤吉 (せとぐち とうきち)

生年月日:1868年5月10日
明治時代;大正時代の軍楽隊指揮者;作曲家。海軍軍楽隊楽長
1941年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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