烏亭焉馬(読み)うていえんば

精選版 日本国語大辞典 「烏亭焉馬」の意味・読み・例文・類語

うてい‐えんば【烏亭焉馬】

江戸後期の戯作者。江戸本所の大工棟梁(とうりょう)本名、中村英祝。通称、和泉屋和助。別号、立川焉馬。立川談洲楼は戯号落語(おとしばなし)自作自演し落語中興の祖と呼ばれる。主著、「花江都(はなのえど)歌舞妓年代記」、洒落本「客者(きゃくしゃ)評判記」、合作脚本「碁太平記白石噺」。寛保三~文政五年(一七四三‐一八二二

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デジタル大辞泉 「烏亭焉馬」の意味・読み・例文・類語

うてい‐えんば【烏亭焉馬】

[1743~1822]江戸後期の戯作者。江戸の人。本名、中村利貞。あざなは英祝。通称、和泉屋和助。別号、立川焉馬・談洲楼など。歌舞伎通であり、また落語を自作自演し、落語中興の祖とよばれる。興行記録「花江都はなのえど歌舞伎年代記」、洒落本「客者評判記」、義太夫節碁太平記白石噺」など。

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改訂新版 世界大百科事典 「烏亭焉馬」の意味・わかりやすい解説

烏亭焉馬 (うていえんば)
生没年:1743-1822(寛保3-文政5)

江戸後期の戯作者。本名中村英祝,通称和泉屋和助。江戸の人。立川焉馬,談洲楼,桃栗山人柿発斎とも号した。本所相生町に住み,大工棟梁を業とし,足袋商をも兼ねた。狂歌好み大田南畝などと親しく交わった。また,5代目市川団十郎を熱烈に贔屓(ひいき)し,贔屓団体三升連を組織し,連中より狂歌などを募り《美満寿組入》(1797)などを編集するとともに,市川団十郎中心の歌舞伎史《花江都歌舞妓年代記》(1811-15)を公刊した。また1786年(天明6)より咄(はなし)の会を主宰し,落咄を公募し,秀作を《無事志有意(ぶじしゆうい)》(1798)などとして上梓するとともに,初代三笑亭可楽,初代三遊亭円生登場の基盤を築いた功績により江戸落語中興の祖とよばれている。洒落本《当世通銭論》(1784)なども著しているが,むしろ式亭三馬,柳亭種彦を育てた俠気を評価すべきであろう。合作浄瑠璃《碁太平記白石噺》(1780)のうち,現在も上演されている七段目は焉馬の担当である。
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百科事典マイペディア 「烏亭焉馬」の意味・わかりやすい解説

烏亭焉馬【うていえんば】

江戸後期の戯作者。本名,中村英祝。通称,和泉屋和助。戯号,立川談洲楼(たてかわだんじゅうろう)等。江戸本所相生町の大工棟梁。俳諧,狂歌,滑稽本の作者として活躍したほか,1786年から新作落咄を披露する〈咄の会〉を催し初代三笑亭可楽,初代三遊亭円生登場の基盤をつくった。また,5世市川團十郎を後援する〈三升連(みますれん)〉を組織し,《花江都歌舞妓年代記》を著した。さらに,浄瑠璃では《碁太平記白石噺》,洒落本では《客者評判記》等の作者として活躍,大田南畝親交があり,門人には式亭三馬柳亭種彦がいる。
→関連項目噺本

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朝日日本歴史人物事典 「烏亭焉馬」の解説

烏亭焉馬

没年:文政5.6.2(1822.7.19)
生年:寛保3(1743)
江戸中期の戯作者。当時の劇文壇,劇界のパトロンとしても知られた。江戸相生町住の大工棟梁を家職とし,通称を和泉屋和助というが,天明末年(1789年ごろ)に町大工となる。戯作は安永6(1777)年ごろから手を染め,活動はほとんどのジャンルにわたる。また,平賀源内や大田南畝などとの親交を通じて,やがて江戸浄瑠璃の作者となり,芝居関係にも顔の利く存在となって,市川団十郎の贔屓団体「三升連」を組織して,代々の団十郎をおおいに守り立てた。晩年,団十郎の顕彰を意図して刊行した『花江戸歌舞伎年代記』(1811~15)は,江戸歌舞伎の根本資料として貴重である。一方,天明末年には新作の落咄の会を創始し,落語中興の祖とも称されている。戯作と芝居と狂歌と落咄という,江戸中期の俗文壇の万般に通じた世話役という役所をつとめた親分肌の人物であったらしい。<参考文献>延広真治「烏亭焉馬年譜」1~6(『東京大学教養学部人文科学科紀要』1982年3月号他)

(中野三敏)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「烏亭焉馬」の意味・わかりやすい解説

烏亭焉馬
うていえんば
(1743―1822)

江戸後期の戯作者(げさくしゃ)。本名中村英祝、通称和泉屋(いずみや)和助。立川(たてかわ)焉馬、談洲楼(だんじゅうろう)、桃栗山人柿発斎(ももくりさんじんかきはっさい)などの別号がある。江戸・本所相生町(あいおいちょう)に生まれ、大工の棟梁(とうりょう)のかたわら足袋(たび)屋を営む。5世市川団十郎の熱烈な贔屓(ひいき)で、後援団体三升連(みますれん)を主宰し、7世団十郎をもり立て、市川家中心の歌舞伎(かぶき)通史『花江都歌舞妓年代記』(1811~1815)を著した。また、1783年(天明3)自作の戯文『太平楽記文』を朗誦(ろうしょう)し、江戸落語再興の契機をつくった。1786年以後三升連中の参加を得て、たび重なる禁令にめげず咄(はなし)の会を催し続け、これが三笑亭可楽(からく)、三遊亭円生らの登場する基盤となった。文政(ぶんせい)5年6月2日没、本所表町最勝寺に葬られる。種々の戯作を残しているが、むしろ文壇の世話役として評価すべきであろう。

[延広真治]

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世界大百科事典(旧版)内の烏亭焉馬の言及

【歌舞伎年代記】より

…正編,続編,続続編の3種がある。正編は烏亭焉馬編,1811‐15年(文化8‐12)刊。原名《花江都(はなのえど)歌舞妓年代記》。…

【碁太平記白石噺】より

…別訓〈ごたいへいきしらいしばなし〉。紀上太郎(きのじようたろう),烏亭焉馬(うていえんば),容楊黛(ようようたい)合作。1780年(安永9)1月江戸外記座初演。…

【伊達競阿国戯場】より

…しかし累は姉の祟りで容貌が醜く変わり,夫の金策を助けるため身を廓へ売ろうとした貞節もむなしく,たまたま与右衛門が頼兼の許嫁歌方姫を連れてきたのを誤解し,嫉妬に狂ったあげく,ついに夫の手で殺される。歌舞伎初演の翌年3月,達田弁二,吉田鬼眼,烏亭焉馬合作によって人形浄瑠璃になり,江戸肥前座で上演された。近年では歌舞伎でも文楽でも累の筋が独立し,おもに《薫樹累物語(めいぼくかさねものがたり)》の外題で上演される。…

【落語】より

… おなじ安永・天明ごろ,江戸は洒落本(しやれぼん),黄表紙(きびようし),狂歌,川柳などの笑いの文学全盛期に入り,落語も復興した。顔ぶれは,烏亭焉馬(うていえんば)(立川(たてかわ)焉馬),桜川慈悲成(じひなり),石井宗叔(そうしゆく)(?‐1803)などだった。焉馬が,1786年(天明6)に向島の料亭武蔵屋で咄の会を開いて以来,江戸の文人や通人の間に咄の自作自演の会が流行した。…

【落語】より

…日本の大衆芸能の一種。滑稽なはなしで聴衆を笑わせ,終りに落ちをつける話芸。演出法は,落語家が扇子と手ぬぐいを小道具に使用し,講談や浪曲(浪花節)のような叙述のことばを省略して,会話と動作によってはなしを展開する。はじめは,単に〈はなし〉といわれ,この言いかたは,現在も〈はなしを聴きに行く〉とか,〈はなし家〉とかいうように残っているが,天和・貞享(1681‐88)以後は,上方を中心に,〈軽口(かるくち)〉〈軽口ばなし〉などと呼ばれ,この上方的呼称である〈軽口〉時代が,上方文学の衰退期である明和・安永(1764‐81)ごろで終わり,文学の中心が主として江戸に移って,江戸小咄時代になると,もっぱら〈落(おと)し咄〉というようになった。…

※「烏亭焉馬」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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