片岡仁左衛門(読み)かたおかにざえもん

精選版 日本国語大辞典 「片岡仁左衛門」の意味・読み・例文・類語

かたおか‐にざえもん【片岡仁左衛門】

大坂の歌舞伎俳優。七世以後の屋号、松島屋
[一] 初世。大坂で座元をつとめ、敵役、実事を得意とした。明暦二~正徳五年(一六五六‐一七一五
[二] 七世。俳名、我童。中絶していた仁左衛門の名跡を再興して襲名。寛政から天保にかけて江戸・上方の実悪の名優として活躍した。宝暦五~天保八年(一七五五‐一八三七
[三] 八世。七世の養子。前名、片岡我童。上方・江戸の人気俳優として活躍。色立役を本領とし、実事もよくした。文化七~文久三年(一八一〇‐六三
[四] 一一世。八世の四男。前名、我当。東京に生まれる。大阪の花形俳優として活躍した。のち東京の劇壇で重鎮となる。和実(わじつ)を得意とした。安政四~昭和九年(一八五七‐一九三四

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デジタル大辞泉 「片岡仁左衛門」の意味・読み・例文・類語

かたおか‐にざえもん〔かたをかニザヱモン〕【片岡仁左衛門】

歌舞伎俳優。延宝期(1673~1681)の若女方豊島春之丞の弟、片岡仁左衛門に始まる上方で最も古い家系。7世以後の家号は松島屋。
(7世)[1755~1837]京都の人。敵役かたきやくで名を挙げたが、女形も兼ね、所作事にもすぐれていた。
(11世)[1857~1934]江戸の生まれ。8世の子。前名、我当。和事実事敵役老け役と芸域が広く、新作でも活躍した。
(13世)[1903~1994]東京の生まれ。11世の子。前名、我当。芸域の広い立役で、特に上方の世話物にすぐれ、上方歌舞伎の伝統保持に努めた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「片岡仁左衛門」の意味・わかりやすい解説

片岡仁左衛門
かたおかにざえもん

歌舞伎(かぶき)俳優。7世以後の屋号松島屋。


初世
(1656―1715)若女方(わかおんながた)豊島春之丞(とよしまはるのじょう)の弟で、初め三味線弾きだったという。のち山下半左衛門(1652―1717)の門に入り、1696年(元禄9)に大坂で座頭(ざがしら)の地位についた。座本を勤めたこともある。敵役(かたきやく)の随一と称されたが、晩年は立役(たちやく)に転じ、実事(じつごと)を得意にした。


2世
生没年未詳。初世の子。1716年(享保1)2世を継いだが早世


3世
生没年未詳。初世の妹婿藤川繁右衛門(しげえもん)。2世が早世したため名義を預かり、家系上の3世となる。


4世
生没年未詳。藤川繁右衛門の養子で、初め2世藤川半三郎。1747年(延享4)4世を襲名。実悪(じつあく)の名手


5世
生没年未詳。4世の養子。3世藤川半三郎と名のり、宝暦(ほうれき)・明和(めいわ)(1751~1772)のころ京都の敵役の第一人者となる。5世仁左衛門を襲名したとの説もあるが明らかでない。


6世
初世の門流であった2世三保木儀左衛門(みほきぎざえもん)が、血統の絶えた片岡の名跡(みょうせき)を預かったので、この人を6世に数える。


7世
(1755―1837)京都生まれ。俳名我童(がどう)。初世浅尾国五郎(?―1776)の弟で、2世浅尾国五郎。1787年(天明7)中絶していた片岡仁左衛門の名跡を再興、7世となる。立役、敵役、女方など芸域の広い名優で、関西劇壇の重鎮として活躍。


8世
(1810―1863)7世の養子。片岡我當(がとう)、2世片岡我童を経て1857年(安政4)江戸で8世を襲名、中村座で座頭になった。容姿に優れ、色立役を本領としたが、敵役、女方、所作事(しょさごと)もよくした。


9世
(1839―1871)8世の養子。2世片岡我當。1907年(明治40)11世仁左衛門が襲名にあたって、9世を追贈したもの。江戸に下って人気を獲得したが、大成をみずに早世した。


10世
(1851―1895)8世の三男。大坂生まれ。3世我童から1895年(明治28)仁左衛門の襲名披露をしたが、まもなく没した。


11世
(1857―1934)本名片岡秀太郎。8世の四男。江戸・浅草猿若町生まれ。3世我當から1907年大阪で11世を襲名。東京と大阪をしばしば往来し、非常に人気があった。関西にあっては初世中村鴈治郎(がんじろう)のライバルとして人気を二分して争い、仁左衛門襲名以後は東京に住み、劇壇の長老として重んじられた。芸域の広い俳優であったが、晩年はとくに老役(ふけやく)に枯淡の味をみせた。『桐一葉(きりひとは)』の片桐且元(かつもと)、『堀川』の与次郎などが当り役であった。


12世
(1882―1946)本名片岡東吉。10世の子。東京生まれ。4世我童から1936年(昭和11)12世仁左衛門を襲名。6世尾上梅幸(おのえばいこう)の没後、15世市村羽左衛門(うざえもん)の相手役として人気、実力を兼備した活躍ぶりを示したが、1946年(昭和21)3月16日食糧難の不幸な時代背景のもとで使用人の手にかかり不慮の死を遂げた。


13世
(1903―1994)本名片岡千代之助。11世の三男。東京生まれ。4世我當から1951年13世を襲名。大阪で「七人の会」に参加し、「仁左衛門歌舞伎」を主催するなど、上方(かみがた)歌舞伎の伝統を継承しようとする意欲を示した。1972年に重要無形文化財保持者に認定され、1981年に芸術院会員に選ばれた。著書に『役者七十年』(1976)、『菅原(すがわら)と忠臣蔵』(1981)など。実子に、5世片岡我當(1935― )、2世片岡秀太郎(1941―2021)、15世片岡仁左衛門がいる。


14世
(1910―1993)本名片岡一(はじめ)。12世仁左衛門の長男。1934年、5世片岡芦燕(ろえん)を襲名。さらに1955年5世片岡我童を襲名(本人は13世を名のっていた)、女方として活躍した。13世仁左衛門の没後、その遺志によって14世を追贈された。


15世
(1944― )13世の三男。本名の片岡孝夫(たかお)を芸名として長く舞台を勤め、1998年(平成10)、15世を襲名した。美貌(びぼう)で花のある立役として抜群の人気があり、平成歌舞伎の代表的俳優の一人として活躍している。2006年(平成18)芸術院会員となる。

[服部幸雄]

『(13世の本)渡辺保著『仁左衛門の風格』(1993・河出書房新社)』『(15世の本)片岡仁左衛門編著『十五代目片岡仁左衛門――片岡孝夫の軌跡』(1998・淡交社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「片岡仁左衛門」の意味・わかりやすい解説

片岡仁左衛門 (かたおかにざえもん)

歌舞伎俳優。15世まであるが,3・5・6世は仁左衛門を名のっていない。7世以降の屋号は松島屋。(1)初世(1656-1715・明暦2-正徳5) 若女方豊島春之丞の弟。初め藤川伊三郎と称する三味線ひきであった。1692年(元禄5)以前に京都へ上り,片岡仁左衛門となる。前名大西森右衛門。96年冬から1709年(宝永6)まではおもに大坂で活躍。座本も長く務めた。口跡に難はあったが,風采に優れ,眼光すさまじく〈敵役の随一〉といわれた役者であった。09年冬から京都に上って立役となり,晩年は実事(じつごと)を得意とした。(2)2世 生没年不詳。初世の子。初め片岡三平。前名長太夫。1717年(享保2)1月仁左衛門を襲名。その後まもなく早世した。実悪の役者。(3)3世 初世の妹婿藤川繁右衛門が2世没後名義を預かったので,これを3世に数える。(4)4世 生没年不詳。俳名茶谷。3世の子とも養子ともいう。初め藤川庄松の名で若女方。1713年(正徳3)冬大坂の山本彦五郎座に出勤。のち敵役に転じ,2世藤川半三郎として,26年冬大坂の藤井花松座に出勤。しだいに評判が上がり,嵐三五郎と組んで大当りをとった。実悪を本領とし,むごい悪の仕打を見せる芸風は,京よりは大坂で人気があった。47年(延享4)に仁左衛門を襲名。藤川茶谷の名で作劇にも名高い。58年(宝暦8)ころから名が見えなくなる。(5)5世 生没年不詳。俳名茶谷。4世の養子となって3世藤川半三郎を名のる。1760年以降は京都で活躍,敵役で世話敵を得意とした。名跡を預かったまま,安永の初めころに名が見えなくなる。(6)6世 片岡の血統は5世で絶えたが,初世の門流であった三保木儀左衛門の縁で,2世の儀左衛門が名跡を預かったので,これを6世に数える。(7)7世(1755-1837・宝暦5-天保8) 俳名我童,梅里,万麿。別号南麗舎。初世浅尾国五郎の弟。初世浅尾為十郎に師事して2世国五郎を名のったが,1787年(天明7),中絶していた片岡の名跡を再興して仁左衛門を襲名。以来上方の重鎮として活躍。肥満型であったが,風采に優れ,せりふは明快であった。芸域が広く,初め半道敵で出て,後には実悪・武道・実事・親仁方から女方まで務めた。(8)8世(1810-63・文化7-文久3) 俳名李童,我童,芦燕。2世嵐璃寛の門弟で,1833年(天保4)7世の養子となり,片岡我当を名のる。以後養父と共に上方で活躍し,37年養父の病死後は,その俳名我童を芸名とし片岡我童と名のった。3世中村芝翫,初世実川延三郎と競う立役の花形となり,54年(安政1)江戸中村座に下り,57年1月同座で仁左衛門を襲名。62年(文久2)10月8年ぶりに帰坂したが,翌3年2月病没。容姿に優れ,色立役を本領としたが,晩年には武道・敵役・女方なども務めた。(9)9世(1839-71・天保10-明治4) 8世の養子。2世片岡松之助から1856年(安政3)4月江戸中村座で2世片岡我当を襲名。没後の1907年になってから,11世の仁左衛門により9世を追贈された。(10)10世(1851-95・嘉永4-明治28) 本名片岡土之助。俳名我童,芦燕。8世の三男。前名我童。1876年に弟の我当と共に上京し,以後東京の各座を転勤。95年大阪で仁左衛門を襲名したが,弁天座における襲名披露興行に,時の長老市川右団次,弟の我当が参加しなかったことを苦にして発狂,4月に没した。和実を本領とし,敵役・女方も兼ねた。(11)11世(1857-1934・安政4-昭和9) 本名片岡秀太郎。俳名我当,万麿。8世の四男。前名3世片岡我当。初めは大阪で初世鴈治郎と対抗する和実の名優で,1907年仁左衛門を襲名後は東京に常住し,晩年には東京の重鎮となった。若いときには和実を得意として上方歌舞伎の担い手として名声をあげ,晩年には老け役に枯淡な味わいを見せて称賛された。《近頃河原達引》の与次郎,《四千両小判梅葉》の富蔵などが当り芸で,広い芸域の持主である。古典に優れている一方,新歌舞伎に清新な演技を見せた。(12)12世(1882-1946・明治15-昭和21) 本名片岡東吉。俳名芦燕。10世の子。前名片岡我童。女方。1936年仁左衛門を襲名後は,15世市村羽左衛門の相手役として活躍。冷たい美貌が不思議な魅力を発揮したが,46年,戦後の世相を反映した不慮の死を遂げた。(13)13世(1904-94・明治37-平成6)本名片岡千代之助。11世の三男。前名我当。1951年大阪で仁左衛門を襲名。その披露公演に《冥途の飛脚》の忠兵衛,《天の網島》の治兵衛を演じ,以来京都に住んで上方芸の和事の伝統を守り関西歌舞伎を支えた。またその伝承のための著述も多い。72年重要無形文化財(人間国宝)の指定を受ける。(14)14世(1910-93・明治43-平成5)本名片岡一。1955年片岡我童を襲名。没後14世を追贈される。(15)15世(1944・昭和19-)本名片岡孝夫。13世の三男。1998年15世を襲名。
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百科事典マイペディア 「片岡仁左衛門」の意味・わかりやすい解説

片岡仁左衛門【かたおかにざえもん】

歌舞伎俳優。京阪では最も古い家柄。屋号松島屋。初世〔1656-1715〕は三味線ひきから俳優に転じ,敵(かたき)役の名人といわれた。7世〔1755-1837〕は中絶していた仁左衛門の名を再興。8世〔1810-1863〕は7世の養子。容姿すぐれ,和事(わごと)を得意とし,女方・老(ふけ)役も兼ねた。11世〔1857-1934〕は8世の四男。明治から昭和にかけての名優で,東京,大阪で活躍。和事・実事(じつごと)のほか新作もよくし,《桐一葉》の片桐且元,《名工柿右衛門》など老人役に傑出した。13世〔1903-1994〕はその三男で,1951年襲名。1972年人間国宝。

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