牧野康成(読み)まきのやすなり

改訂新版 世界大百科事典 「牧野康成」の意味・わかりやすい解説

牧野康成 (まきのやすなり)
生没年:1555-1609(弘治1-慶長14)

安土桃山~江戸初期に徳川家康に仕えた武将。成定の嫡男。母は不詳。家康の命で父の跡を継ぎ三河国宝飯(ほい)郡牛窪(うしくぼ)城主となり,長篠の戦をはじめ諸戦に従軍し,勇将の名をうたわれた。1590年(天正18)家康の関東入国のとき上野国勢多郡大胡(おおご)城主となり,2万石を領する。関ヶ原の戦には徳川秀忠に従い,信濃上田城を攻めたが軍令違反をとがめられ,以後大胡に閑居し,同地で死んだ。なお,嫡子忠成の次男(1617-57。初名武成)も同名である。
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朝日日本歴史人物事典 「牧野康成」の解説

牧野康成

没年:慶長14.12.12(1610.1.6)
生年:弘治1(1555)
安土桃山・江戸前期の武将。三河牛久保城(豊川市)城主牧野成定の子。通称新次郎,のち右馬允。名ははじめ貞成といったが,徳川家康から諱の1字を受けて康成と称した。父の代から家康に仕え,掛川城攻め,長篠の戦で戦功をあげ,天正10(1582)年の本能寺の変のときには駿河興国寺城の城将。同18年の小田原攻め後,家康の関東移封の時,上野国大胡2万石を与えられた。慶長5(1600)年の関ケ原の戦には徳川秀忠に属して真田昌幸の上田城攻めに加わり奮戦したが,軍令違反を犯し,上野国吾妻の砦に蟄居,同9年,家光の誕生を機に許されている。

(小和田哲男)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「牧野康成」の解説

牧野康成 まきの-やすしげ

1548-1599 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)17年生まれ。はじめ今川氏真(うじざね)に属し,徳川家康とたたかう。永禄(えいろく)8年家康につかえ,天正(てんしょう)18年関東入りの際,武蔵(むさし)足立郡石戸(埼玉県)に5000石をあたえられた。慶長4年3月8日死去。52歳。三河(愛知県)出身。初名は正勝,のち忠知。通称は惣次郎,半右衛門

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の牧野康成の言及

【牧野氏】より

…東三河の国人領主。戦国末期に松平氏の家臣となり,近世には一族の各家は将軍家の門閥譜代家臣として大名や上級旗本となる。出自は紀氏で,武内宿禰の後胤阿波民部丞成能,田内左衛門尉成直親子が阿波守に任じて以来,子孫相うけて讃岐国に住んでいたが,田内左衛門成富が応永年中(1394‐1428)細川氏に従って三河国に移り,宝飯(ほい)郡牧野村(現,愛知県豊川市)に住んでから牧野を称したという。戦国期には氏勝家と定成(さだしげ)家の2流があった。…

【与板[町]】より

…新潟県中部,三島(さんとう)郡の町。人口7484(1995)。越後平野南西部,信濃川西岸にあり,西部は東頸城(ひがしくびき)丘陵の北東端が占める。近世は信濃川舟運(長岡船道(ふなどう))の重要な河港であり,越後屈指の豪商を輩出した。1879年には三島郡役所が置かれ,郡の中心となったが,鉄道網が整備されるにしたがい河川交通は衰えた。産業は,農業よりも商工業の比重が高く,なかでも戦国期の刀鍛冶の流れをくみ近世中期に始められた与板刃物は,特産として知られる。…

※「牧野康成」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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