狩野元信(読み)カノウモトノブ

デジタル大辞泉 「狩野元信」の意味・読み・例文・類語

かのう‐もとのぶ【狩野元信】

[1476~1559]室町後期の画家。正信の子。漢画様式に土佐派大和絵の手法を取り入れて両者の融合を図り、次代の桃山障壁画における狩野派の画風と活躍の基礎を築いた。作品に大徳寺仙院客殿襖絵の「山水花鳥図」など。

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精選版 日本国語大辞典 「狩野元信」の意味・読み・例文・類語

かのう‐もとのぶ【狩野元信】

室町後期の画家。狩野家二代目。正信の子。法名永仙。足利家の御用絵師となり、法眼に叙せられる。正信の画風をさらに発展させる。土佐派の技法などをとり入れ、日本画の伝統的な装飾性を画面に生かし新様式を大成。作品「山水花鳥図襖絵四十九幅」「神馬図扁額」など。文明八~永祿二年(一四七六‐一五五九

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改訂新版 世界大百科事典 「狩野元信」の意味・わかりやすい解説

狩野元信 (かのうもとのぶ)
生没年:1476-1559(文明8-永禄2)

室町後期の画家。狩野正信の長男。幼名は四郎二郎。大炊助(おおいのすけ),越前守また法眼となる。初期には父の正信と同様に,《細川澄元像》(1507),《鞍馬蓋寺縁起絵巻》(1513)など幕府関係,とくに幕府の実権者であった管領細川氏の下で働いている。その後,幕府の弱体化によって活躍の場を他に求めるようになり,1543年(天文12)に内裏の小御所,46年に記録所の障子絵を描くなど宮廷や公家に出入りする一方,1539年から十数年間にわたる石山本願寺での制作や上層町衆を対象とする絵馬・扇面画など各階層に広がっていく。時勢に応じて時の権力者をパトロンとし,需要のあるところに素早く対応することによって自派を発展させていった。この自由さは,幕府や寺社などの組織にしばられない専門画家になることで生まれたものであり,正信以来の法華宗徒でありながら,当時対立関係にあった浄土真宗本願寺の仕事をしたことによく表れている。また元信は数人の弟子とともに工房を組織することで大量の注文に応じていった。障壁画の場合は工房による共同制作が有効なものであって,石山本願寺の記録には子の松栄をはじめとする数人の名が見いだせ,大徳寺大仙院や妙心寺霊雲院の障壁画は,元信以外に弟の之信など数人が参加していると考えられている。中国画を手本として描いた筆様というそれまでの方法に対して,狩野派独自のスタイルである真・行・草の画体を作り上げたことも重要で,これによって大量の障壁画に共同してあたれるようになった。題材は山水,人物,花鳥のすべてにわたり,正信の手がけなかった絵巻物も描いている。現存作品では,大徳寺大仙院(1513)と妙心寺霊雲院(1543)の障壁画が元信を中心とした狩野派によって描かれたもので,その中でも前者の《禅宗祖師図》と《四季花鳥図》,後者の《月夜山水図》と《四季花鳥図》が元信筆と考えられている。大仙院の花鳥図は真体著色の技法であり,霊雲院画は行体淡彩,それに白鶴美術館の《四季花鳥図屛風》の金地著色を加えた3種の技法が以後の花鳥画の基本となった。その画風は,《本朝画史》に〈漢にして倭を兼ねる〉とあるとおり,漢画の線描によって対象を明確に描写し,鮮やかな色彩を加えることによって平明で装飾的な画面を生んだ。工房組織によって流派としての発展を可能にしたので,狩野派の基礎の確立者といわれ,彼の様式は後世古法眼(こほうげん)〉と俗称されて,神格化された。
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百科事典マイペディア 「狩野元信」の意味・わかりやすい解説

狩野元信【かのうもとのぶ】

室町時代の画家。狩野正信の子。父の跡を受けて幕府の御用絵師になっただけでなく,すぐれた画才と行動力により武家,宮廷,寺院から堺町衆まで,幅広い層の用命を受けて活躍した。土佐家(土佐派)とも親交を結んで大和絵の手法をも吸収,障壁画屏風(びょうぶ)から絵巻,絵馬まであらゆる形式,画材をこなした。1539年−1553年石山本願寺大坂御坊)で障壁画を制作,多額の報酬を得たことが記録に残っている。漢画の構成力と筆力に大和絵の金銀を主調とする彩色を合わせた,平明な装飾画の様式を確立,これは永徳に受け継がれて桃山時代の金碧(きんぺき)画様式へ発展した。狩野派の大成者のみならず,近世絵画の母体を準備した人としてその功績は大きい。代表作大仙院や霊雲院の襖絵(ふすまえ),《釈迦堂縁起絵巻》など。
→関連項目海北友松狩野永徳狩野松栄瀟湘八景吃又

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「狩野元信」の意味・わかりやすい解説

狩野元信
かのうもとのぶ
(1476―1559)

室町後期の画家。狩野派の始祖狩野正信の長男とも次男ともいわれ、初め四郎二郎、のちに大炊助(おおいのすけ)、越前守(えちぜんのかみ)に任ぜられ、永仙と号した。その後の狩野派発展の基礎を確立した人物である。法眼(ほうげん)にも叙せられたことより、江戸時代の画史・画伝類では、敬愛を込めて「古法眼」とよばれた。1513年(永正10)『鞍馬寺(くらまでら)縁起絵巻』を細川高国の命により描き、またこのころ大徳寺大仙院客殿襖絵(ふすまえ)を制作。その水墨を基調に要所要所に濃彩を施した障壁画(しょうへきが)は、明快で平明な画調を示し、きたるべき桃山期障屏画(しょうへいが)の先駆をなすもので、この作品によってまさしく近世絵画への幕が切って落とされたといえよう。そうした元信の画業は、43年(天文12)の妙心寺霊雲院方丈襖絵に典型的に示されている。

 また元信は、幕府をはじめ宮廷、公武、町衆など各層からの幅広い需要に応じるべく、多数の門人を率いて障屏画から絵馬(えま)、扇面画に至るまで精力的に制作した。1535年内裏(だいり)に水墨の屏風(びょうぶ)を納め、その6年後には大内義隆(よしたか)より明(みん)に贈る金屏風、金扇の注文も受けた。また39~53年には弟子とともに石山本願寺の障壁画制作を担当、単に禅宗寺院や自らも信奉した日蓮(にちれん)宗の寺院からの注文に応ずるだけでなく、職業画人として他宗派からの需要にも積極的にこたえたことが知れる。こうした点にも、元信の近世的性格がうかがわれる。技法的には、中国伝来の水墨画の画法に在来の土佐派の技法を折衷、新時代の感性に適合した明快な絵画様式を創造した。代表作に、前述の大仙院と霊雲院襖絵のほか、『瀟湘(しょうしょう)八景図』(妙心寺東海庵(あん))、『四季花鳥図屏風』、『清凉寺縁起絵巻』(京都嵯峨(さが)・清凉寺)がある。

[榊原 悟]

『山岡泰造著『日本美術絵画全集7 狩野正信・元信』(1981・集英社)』


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朝日日本歴史人物事典 「狩野元信」の解説

狩野元信

没年:永禄2.10.6(1559.11.5)
生年:文明8.8.9?(1476.8.28)
室町後期の画家。狩野派の始祖正信の子として山城国(京都府)に生まれる。幼名四郎二郎。大炊助,越前守に任ぜられ,さらに法眼に叙せられた。最も早い作画の記録は永正10(1513)年の「鞍馬寺縁起」の制作で,また,この年に創建された大徳寺大仙院客殿の障壁画制作を,相阿弥と共に一門を率いて担当している。この障壁画の制作年代については近年異説もあるが,永正10年をさほど隔たらない時期のものとみてよい。そのうち「四季花鳥図」(大徳寺大仙院蔵),「禅宗祖師図」(東京国立博物館蔵)は元信自身が手がけたもので,彼の前期の基準作である。その後,天文8(1539)年から22年にかけて,石山本願寺の障壁画制作に携わったことが記録にみえるが,現存しない。後期の基準作としては,天文12年創建の妙心寺霊雲院旧方丈の障壁画がある。大仙院画と同様,一門を率いた工房制作であり,このうち「四季花鳥図」は元信自身が手がけたことが確実な作品である。障壁画制作に顕著にみられるように,元信は一門を組織化し,分業システムを確立,幅広い需要にこたえることに成功した。 宋,元,明の中国絵画の様式を幅広く摂取し,周文に代表される従来の室町水墨画の様式を整理,統合し,やまと絵の技法も早くから取り入れ,後世の規範となる厳格な様式を築いた。以後約400年にわたって画壇に君臨する狩野派の基礎を固めた功績では父正信をしのぎ,のちに「古法眼」と呼ばれて神格化される。なお,元信は宮廷絵所預土佐光信の娘を妻にしたという伝承があり,やまと絵を代表する土佐派との交流が推測される。3子をもうけたと伝えられるが,そのうち2子は早世のためか伝記が明らかでなく,3男の松栄(直信)が家督を継いだ。松栄の子が桃山画壇を代表する巨匠永徳である。永徳の大画面様式の母胎となる様式を生み出したという点でも,元信は高く評価される。<参考文献>辻惟雄「狩野元信1~5」(『美術研究』246,249,270~272号)

(山下裕二)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「狩野元信」の意味・わかりやすい解説

狩野元信
かのうもとのぶ

[生]文明8(1476).8.9.
[没]永禄2(1559).10.6.
室町時代後期の画家。狩野派の基礎の確立者。狩野正信の子。初名四郎二郎,のち大炊助 (おおいのすけ) に任じられて元信と称し,晩年越前守となる。剃髪して永仙と号し,法眼位に上る。『鞍馬蓋寺縁起絵巻』,大徳寺大仙院客殿襖絵,『清涼寺縁起絵巻』の制作が示すように,元信は永正年間 (1504~21) にすでに父正信に代って活躍し,その後も室町幕府絵師としてばかりでなく,宮廷や公家関係の画事をも担当。また大仙院,妙心寺霊雲院や石山本願寺でも大規模な障壁画制作を行い,狩野派は元信の時代に多くの画家,画工をかかえる工房に発展し,幅広い分野で活躍した。一方,元信は宋・元・明画のほか,漢画阿弥派の作品を研究して,従来の馬遠様,夏珪様,牧谿様,玉澗様などの筆様を真,行,草の画体に整理した。天文 12 (43) 年の霊雲院の障壁画群はその好例。また,永正 10 (13) 年の大仙院『四季花鳥図』襖絵に指摘される花鳥画の構成と手法は,桃山時代の花鳥図障壁画の原型となった。土佐家との姻戚関係の伝承は確かでないが,やまと絵の領域に進出し,その装飾性を漢画に取入れて和漢融合様式を創出した意義は大きい。主要作品は前述のほか『神馬図』額 (室津賀茂神社) ,『瀟湘八景図』 (妙心寺) など。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「狩野元信」の解説

狩野元信
かのうもとのぶ

1476.8.9~1559.10.6

戦国期の画家。正信の長男。初名四郎二郎。山城国生れ。大炊助(おおいのすけ)を称し,越前守・法眼(ほうげん)となる。狩野派発展の基礎を確立し,後世,古法眼と仰がれた。父正信が得た幕府の御用絵師の立場を保持する一方,宮廷や公家・寺社・町衆にも支持層を広げ,多くの門弟を擁する工房を組織して需要に応じた。1539年(天文8)から53年には石山本願寺の障壁画を制作。漢画の諸様式を広く学んで整理統合し,また大和絵の技法をもとりいれ,和漢融合による明解で装飾性豊かな障壁画様式を創始した。代表作は大徳寺大仙院客殿襖絵(ふすまえ),妙心寺霊雲院旧方丈襖絵,「清凉寺縁起絵巻」など。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「狩野元信」の解説

狩野元信 かのう-もとのぶ

1476-1559 戦国時代の画家。
文明8年8月9日生まれ。狩野正信の長男。漢画と大和絵を融合したあたらしい様式をつくりあげ,狩野派の基礎をきずく。相阿弥らと制作した大徳寺大仙院客殿の襖絵は,妙心寺霊雲院方丈襖絵とともに元信の障壁画の代表作。内裏小御所襖絵,石山本願寺の障壁画のほか,扇面画なども手がけ,その作品は,宮廷や公家,武家,町衆など幅ひろい層に支持された。永禄(えいろく)2年10月6日死去。84歳。号は永仙。

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旺文社日本史事典 三訂版 「狩野元信」の解説

狩野元信
かのうもとのぶ

1476〜1559
室町末期の画家。狩野派の大成者
正信の長男。唐絵の画法に大和絵の技法をとり入れ力強い装飾的画風を創造。これが武家社会に迎えられ,狩野派発展のもととなった。代表作に大徳寺大仙院蔵『花鳥図』,妙心寺霊雲院蔵『山水花鳥図』など。

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367日誕生日大事典 「狩野元信」の解説

狩野元信 (かのうもとのぶ)

生年月日:1476年8月9日
戦国時代の画家
1559年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の狩野元信の言及

【狩野派】より

…室町中期から明治初期まで続いた,日本画の最も代表的な流派。15世紀中ごろに室町幕府の御用絵師的な地位についた狩野正信を始祖とする。正信は俗人の専門画家でやまと絵と漢画の両方を手がけ,とくに漢画において時流に即してその内容を平明なものにした。流派としての基礎を築いたのは正信の子の元信である。漢画の表現力にやまと絵の彩色を加えた明快で装飾的な画面は,当時の好みを反映させたものであり,また工房を組織しての共同制作は数多い障壁画制作にかなうものであった。…

【室町時代美術】より


[和漢の統合]
 再び京都の画壇に目を移せば,相阿弥は,将軍家のコレクションにある牧谿の作風の深い理解のなかから大仙院襖絵(1513ころ)の山水画にみるような,墨の微妙な階調と余白を生かした詩情豊かな山水画風をつくり出している。狩野正信の子狩野元信もまた,将軍家の御用絵師の立場を利用して宋・元・明の絵画を幅広く学び取り,真(馬遠様),行(牧谿様),草(玉澗様)の三体にわたる装飾的秩序をそなえた明解な画風を完成させた。大仙院《花鳥図襖絵》は,真体の,霊雲院《花鳥図襖絵》(1543ころ)は行体の,それぞれ代表的な作例である。…

※「狩野元信」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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