精選版 日本国語大辞典 「玉松操」の意味・読み・例文・類語
たままつ‐みさお【玉松操】
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幕末・維新の勤王国学者。本姓山本、名は真弘。西園寺(さいおんじ)家の末流である侍従山本公弘(やまもときんひろ)の次男として京都に生まれる。幼時より醍醐(だいご)寺に入り、猶海(ゆうかい)と称し、大僧都(だいそうず)法印の位まで得たが、僧律改革を唱えていれられず、還俗(げんぞく)して山本毅軒(きけん)、のち玉松操と改めた。国、儒、仏の典籍に通じ、尊王攘夷(じょうい)の説を唱えた。1867年(慶応3)岩倉具視(いわくらともみ)を訪ねてその知遇を得、その腹心として王政復古の計画に参画、維新後もその側近として重用され、1869年(明治2)徴士(ちょうし)内国事務権判事(ごんのはんじ)、1870年侍講となった。「王政復古の大号令」の渙発(かんぱつ)、神武(じんむ)創業への復帰の大方針はまさに彼の意見に基づくものといわれ、維新当初の復古的精神の一翼を担った。しかし新政府の方針が自らの意に反して開国主義、洋学採用の方向をとるのをみて、1871年憤懣(ふんまん)のなかに職を辞し、翌1872年うつうつたる心を抱いたまま世を去った。
[和田三三生 2016年6月20日]
幕末・明治維新期の国学者,公卿。京都の生れ。参議・侍従山本公弘の子。幼少のとき出家したが合わず還俗し,山本毅軒また玉松操と称して国学を学び,私塾を開いて教えた。1867年(慶応3)岩倉具視を知り,その謀臣となって大政奉還,討幕の密勅,王政復古などの画策に活躍した。維新後,徴士,内国事務局権判事,侍講などになったが,新政府の方針に反対し,辞任して京都に隠遁した。
執筆者:田村 貞雄
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