瑞泉寺(読み)ずいせんじ

精選版 日本国語大辞典 「瑞泉寺」の意味・読み・例文・類語

ずいせん‐じ【瑞泉寺】

[一] 神奈川県鎌倉市二階堂にある臨済宗円覚寺派の寺。山号は錦屏山(きんぺいさん)。嘉暦二年(一三二七)創建。開基は二階堂道蘊(どううん)。開山は夢窓疎石(むそうそせき)。のち、関東公方の足利基氏が中興後、室町初期には関東十刹の第二位に列せられ、関東足利氏代々の菩提寺となった。境内は水仙・梅・紅葉の名所として知られ、開山堂に夢窓疎石像(国重要文化財)を安置し、本堂のうしろの庭園(国名勝)は疎石の作と伝えられる。
[二] 富山県南砺市井波にある真宗大谷派の別院。山号は杉谷山。明徳元年(一三九〇)本願寺五世綽如(しゃくにょ)が勅許を得て開創。所蔵される綽如筆勧進状は国重要文化財。井波別院。井波の大御坊。
[三] 京都市中京区石屋町にある浄土宗西山禅林寺派の寺。慶長一六年(一六一一豊臣秀次とその一族の供養のため角倉了以が創建。開山は桂叔。悪逆塚(畜生塚)で知られる。

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デジタル大辞泉 「瑞泉寺」の意味・読み・例文・類語

ずいせん‐じ【瑞泉寺】

神奈川県鎌倉市二階堂にある臨済宗円覚寺派の寺。山号は錦屏山。開創は嘉暦2年(1327)、開山は夢窓疎石、開基は二階堂道蘊どううん。中興開基は足利基氏。鎌倉公方くぼう代々の菩提寺。

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日本歴史地名大系 「瑞泉寺」の解説

瑞泉寺
ずいせんじ

[現在地名]井波町井波

八乙女やおとめ山北麓に位置。真宗大谷派に属し、法人名は井波別院瑞泉寺。杉谷山と号し、本尊は阿弥陀如来。明徳元年(一三九〇)本願寺五世綽如(尭雲)山斐やまひ郷内井波に創建(同年八月「瑞泉寺勧進状」瑞泉寺文書)、以後、井波瑞泉寺と通称された。綽如は至徳元年(一三八四)に六世巧如に譲位し(「綽如譲状」本願寺文書)、その後杉谷慶善の招きにより野尻のじり(現福野町)に滞留、次いで杉谷すぎたに(現庄川町前山)に一宇を建立し籠居したとも伝える(賢心物語)。本願寺歴代宗主は日野家猶子になっており、綽如の義兄弟の日野資康が石黒いしぐろ山田やまだ(現福光町)の代官であった関係から綽如の越中下向がなされたものと推測される。綽如以降は杉谷慶善の女、「時宗ヲチ」とされる如蓮が留守をし(「賢心物語」など)、御堂衆三、四人ばかりが住んでいた(反故裏書)。この頃当寺での朝暮の勤行は、浄土宗で盛んであった六時礼讃が行われたといい(本願寺作法之次第)、当寺は法然門流を背景に存在していたと考えられる。永享七年(一四三五)巧如次男如乗が当寺住持となり、綽如三男周覚(越前荒川興行寺開基)女勝如が室となった。なお永享一二年頃には巧如が四月から秋まで当寺に滞在していた(「存如書状」浄興寺文書)。如乗は当寺が「不弁」として加賀河北かほく二俣ふたまた(現石川県金沢市)に移り住んだ。後継者は如乗の女如秀に入婿した蓮乗(蓮如次男)で、二俣坊と当寺を相続し、半月ずつ兼帯したという(賢心物語)。蓮乗は了如(蓮如九女)を猶子とし、綽如曾孫の蓮欽(越前荒川興行寺祐慶次男)を配して、長享(一四八七―八九)頃から当寺に住まわせた(日野一流系図)。なお蓮如は「於当流北国ノ開山ハ当寺ナリ」といい(賢心物語)、文明元年(一四六九)には蓮乗に親鸞絵像(寺蔵)を下付し、同七年(「実悟記」では同五年とする)に当寺に下向している(賢心物語)

文明一三年二月、加賀守護富樫政親の要請を受けた福光ふくみつ城主石黒右近光義は、石川郡・河北郡の坊主が寄留していた当寺を焼亡させるため出陣した。一方、五箇山ごかやま勢、般若野はんにやの郷・射水いみず郡百姓など五千余人は当寺に集まり、山田川(小矢部川支流)田屋たや河原での戦いで石黒氏を破り、同氏に加勢した惣海そうかい(現福光町)は焼失した。これにより礪波郡の山田川以西は末友安養すえともあんよう(勝興寺)領、以東は当寺領と定められた。

瑞泉寺
ずいせんじ

[現在地名]鎌倉市二階堂

天台てんだい山の南、紅葉もみじやつにある。臨済宗円覚寺派、山号錦屏山、本尊は地蔵菩薩。嘉暦二年(一三二七)の創建。開山夢窓疎石、開基二階堂道蘊、中興開基足利基氏。紅葉ヶ谷は紅葉の名所であり、山号もそれにちなんでつけられたと思われ、現在は当寺背後の山を錦屏きんぺい山という。紅葉ヶ谷は元徳二年(一三三〇)三月四日の崇顕(金沢貞顕)書状(県史二)に「椙谷を当時紅葉谷申候也」という書きこみがあり、すぎ谷は「風土記稿」は瑞泉寺北の獅子舞ししまいヶ峯の西方少し下る所であるとする。

嘉暦元年、永福ようふく寺傍らの南芳なんぽう院に寓居していた夢窓疎石は翌年の「瑞泉院」創建に伴い移住、同三年には観音殿、山頂に界一覧亭が造られ(夢窓国師年譜)、庭園もこの頃作られたのであろう。疎石が幼年期を過ごした甲斐は二階堂道蘊の領地であり、そんな関係から道蘊はその本邑二階堂にかいどうに疎石のために寺を建立したと考えられる。前出崇顕書状によると、北条高時は元徳二年当寺を訪れているが、貞顕は当寺を「石長老の二階堂紅葉谷の庵」といっている。

鎌倉幕府滅亡後も疎石は足利氏の帰依を得、当寺も貞治六年(一三六七)四月に足利基氏が瑞泉寺に葬られてからは、足利氏菩提寺の一つとして、また夢窓派の関東における拠点の一つとして発展した(空華日用工夫略集)

瑞泉寺
ずいせんじ

[現在地名]犬山市犬山 瑞泉寺

犬山城の東七〇〇メートル、小山の中腹にある。青竜山と号し臨済宗妙心寺派。本尊は木造虚空蔵菩薩坐像。貞享三年(一六八六)仁渓慧寛の「青竜山瑞泉禅寺記」によると、応永二二年(一四一五)日峰宗舜により建立。開山は無因宗因。その後、義天玄承・雲谷玄祥・桃隠玄朔・雪江宗深がその跡を継ぎ、文明年間(一四六九―八七)より明応年間(一四九二―一五〇一)頃まで景川宗隆・悟渓宗頓・特芳禅傑・東陽英朝が在住し隆盛を極めたが、その後衰微した。元亀二年(一五七一)用玄楚全が沢彦宗恩の介添えで信長より「当寺之事、為関山派本寺之条、早再興尤候、材木召下ニ付、河並諸役除之状、如件」との朱印状(瑞泉寺文書)を受け復興。

瑞泉寺
ずいせんじ

[現在地名]上越市南本町三丁目

浄土真宗本願寺派、杉谷山井波園と号し本尊阿弥陀如来。開基善性。善性は信濃源氏の末裔井上善勝の嫡子井上善親で、関東教化中の親鸞の弟子となり、名を善性と改め下総国久我の磯部くがのいそべ(現茨城県猿島郡総和町)に一宇を建立、勝願しようがん寺と名付けたのが当寺の起源という(元禄一四年「瑞泉寺由緒書」上越市立高田図書館蔵)。その後蓮如の頃文明一五、六年(一四八三、八四)に一二世慶順(善祐)は信州高井たかい郡に行化してから五代の間下総と信州とを往返したが、一六世善英のとき織田信長から信州水内みのち南条みなみじよう(現飯山市)に寺地をもらって一宇を建立、同じく勝願寺と名付けた(同由緒書)。この時期を信州側の史料である寺社領并由緒書(西教寺蔵)は天正九年(一五八一)とする。

瑞泉寺
ずいせんじ

[現在地名]富山市安養坊

法眼山と号し、曹洞宗。開祖は近江国新豊寺(越前慈眼寺末)の天叟祖寅(寛正五年能登総持寺住職、応仁元年没)で、文安二年(一四四五)新川にいかわ林崎はやしざきに建立されたという。神保氏より山林田園を寄進されるなどの外護をうけ、越中における越前慈眼じげん(現福井県今庄町)末禅院開設の先蹤となり、長禄二年(一四五八)の神保氏菩提寺としての光厳こうごん寺創建を準備した。

瑞泉寺
ずいせんじ

[現在地名]甲府市中央三丁目

JR身延線金手かねんて駅の南西方にある。青竜山深心院と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。浄土宗甲府五ヵ寺の一つ。明応七年(一四九八)善蓮社昊誉運公が相州鎌倉の瑞泉寺を模して創建したという(甲斐国志)。当初の寺地は不明。慶応四年(一八六八)当寺が提出した本末寺録明細牒(寺記)によれば、貞治六年(一三六七)に死んだ足利基氏(法号瑞泉寺殿玉岩公大居士)開基の鎌倉瑞泉寺が荒廃していたことから、明応七年武田氏某が同寺を甲斐へ引取り浄土宗に改め、昊誉運公を中興開山としたとある。基氏の位牌と肖像が置かれたという(甲斐国志)。慶長年中(一五九六―一六一五)中興八世大誉法阿は徳川家康から三ノ堀内側の現在地に境内地を拝領した。

瑞泉寺
ずいせんじ

[現在地名]緑区鳴海町 相原町

竜蟠山と号し、曹洞宗。本尊釈迦牟尼仏。当寺に残る正眼しようげん(現小牧市)への古文書などによれば、永徳元年(一三八一)大徹宗令が鳴海の平部なるみのひらぶ山に庵を結び、付近の人々の教化をしたことに始まるという。嘉慶二年(一三八八)将軍足利義満が宗令に帰依、荘田二〇町と唐画星宿像を与えたという。時の鳴海城主安原宗範は、応永三年(一三九六)伽藍を建立(ほかに永徳元年・応永一一年説がある)瑞松ずいしよう寺と名付けた。同二三年第三世劫外のときに双竜が戒を受け、この竜骨を奉安し、山門の鎮護としたという逸話が伝わる。文明元年(一四六九)兵火により焼失、文亀元年(一五〇一)(ほかに明応九年・永正元年説がある)現在地に移転した。

瑞泉寺
ずいせんじ

[現在地名]中京区石屋町

三条小橋東詰南にある。慈舟山と号し、浄土宗西山禅林寺派。本尊阿弥陀如来。開基は三空桂叔。この地はもともと三条河原であったが、文禄四年(一五九五)七月一五日、豊臣秀吉は甥秀次の遺児や妻妾三〇余人をこの地で斬り、紀州高野山で自害させられた秀次の首と併せて埋め、石を建て秀次悪逆塚と刻んだ。世にいう畜生塚である。その後僧慶順なる者がその惨死を悼み、この地に庵を結んで菩提を弔ったが、かも川の洪水で塚は破壊された。慶長一六年(一六一一)角倉了以が高瀬たかせ川を開削したとき、僧桂叔と謀って塚を再建。

瑞泉寺
ずいせんじ

[現在地名]新宮市新宮

千穂ちほヶ峯の東麓にある浄土宗の寺院で、地元では大寺おおてらとよばれる。神光山と号し、本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば平維盛の家臣斎藤六が主君の菩提を弔うため道心となって熊野三山を巡拝し、当地に草庵を結び念仏修行をしたのに始まり、その後この草庵には熊野道者が絶えず往来するようになった。慶長一三年(一六〇八)芝増上しばぞうじよう(現東京都港区)の源誉の法孫三誉が熊野三山巡拝のとき立寄り、領主浅野忠吉の帰依を得て堂宇を建立、瑞泉寺と号したという(新宮市誌)

瑞泉寺
ずいせんじ

[現在地名]津島市舟戸町

延享五年(一七四八)の村絵図には天王てんのう川の祭河戸まつりこうどの北東にある。鏡池山と号し、浄土宗西山禅林寺派。本尊は阿弥陀如来坐像。

「良王君、明応元年三月五日逝去。御年七拾八。瑞泉寺殿と号し奉る」(浪合記)という因縁で菩提寺となった真言宗瑠璃光るりこう寺を改号したと寺伝はしている。尹良親王の子良王君の御影は延享四年に焼失、宝暦九年(一七五九)の再製御影を蔵している。「寺記」では、初め天王川の西岸天王島にあったが、永正一四年(一五一七)日仙寿慶の時、天王川東岸の津島本郷の舟戸ふなとの地に移し、浄土宗に改宗したと伝えている。

瑞泉寺
ずいせんじ

[現在地名]福地村福田 館

福田ふくだの北、福田館跡の南西端に位置する。福田山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦牟尼。寛保四年(一七四四)の諸寺院寺号山号帳(八戸市立図書館蔵)に「一名久井法光寺末寺福田村 福田山瑞泉寺」とある。永禄七年(一五六四)の草創で、開山は法光ほうこう(現名川町)五世久山と伝え、一説には永禄七年は久山が没した年ともいう(新撰陸奥国誌)

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改訂新版 世界大百科事典 「瑞泉寺」の意味・わかりやすい解説

瑞泉寺 (ずいせんじ)

神奈川県鎌倉市にある臨済宗円覚寺派の寺。山号は錦屛(きんぺい)山。開山は夢窓疎石,開基は二階堂道蘊,中興開基は足利基氏で1327年(嘉暦2)開創。本尊は地蔵菩薩。1633年(寛永10)の《五山之目録》には関東十刹に記されているが,1786年(天明6)《鎌倉五山円覚寺本末帳》には十刹2位の円覚寺塔頭(たつちゆう)黄梅(おうばい)院の所属になっており,寺領も円覚寺寺領の配分となり,円覚寺塔頭に準ずる扱いとなっている。寺宝に木像夢窓国師座像(重要文化財)がある。境内は国の史跡に,夢窓疎石作庭のままに復元された庭園は名勝に指定されている。
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百科事典マイペディア 「瑞泉寺」の意味・わかりやすい解説

瑞泉寺【ずいせんじ】

富山県井波(いなみ)町(現・南砺市)にある真宗大谷派の寺。井波別院とも。1390年本願寺5世綽如(しゃくにょ)が創建,後小松(ごこまつ)天皇の勅願所となったという。戦国期越中の一向一揆(いっこういっき)の頭目であったが,1581年佐々成政に攻められ陥落。井波城とされた。その後羽柴秀吉(はしばひでよし)の取立てで井波に還住した准秀が1613年現在地に復興した。紙本墨書綽如上人勧進状と後花園天皇宸翰は重要文化財。

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デジタル大辞泉プラス 「瑞泉寺」の解説

瑞泉寺

富山県南砺市にある真宗大谷派の寺院。「井波別院瑞泉寺」とも。山号は杉谷山、本尊は阿弥陀如来。1390年創建。越中一向一揆の中心的寺院として知られる。

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事典・日本の観光資源 「瑞泉寺」の解説

瑞泉寺

(神奈川県鎌倉市)
かながわの花の名所100選」指定の観光名所。

瑞泉寺

(富山県南砺市)
富山の建築百選」指定の観光名所。

瑞泉寺

(神奈川県鎌倉市)
鎌倉十刹」指定の観光名所。

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