田辺(市)(読み)たなべ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「田辺(市)」の意味・わかりやすい解説

田辺(市)
たなべ

和歌山県中南部にある南紀の商業、観光の中心都市。1942年(昭和17)田辺町と下芳養(しもはや)村が合併して市制施行。1950年(昭和25)万呂(まろ)、下秋津(しもあきつ)、稲成(いなり)の3村、1954年新庄(しんじょう)村、1955年西富田(にしとんだ)村(1958年分離して白浜町に編入)、1964年牟婁(むろ)町を編入。2005年(平成17)中辺路(なかへち)、本宮(ほんぐう)の2町と龍神(りゅうじん)、大塔(おおとう)の2村を合併、市域は東に大きく広がり、面積は約7.5倍の1026.91平方キロメートルとなり、県最大となった。西部の海岸沿いをJR紀勢本線(きのくに線)、国道42号が通じ、山間部では熊野参詣(くまのさんけい)道に由来する国道168号、311号、371号(一部は高野龍神スカイライン)や国道424号、425号などが通じる。JR紀伊田辺駅は白浜、本宮、龍神をはじめとする周辺地域へのバスターミナルともなっている。地名はこの地に置かれた館(むろづみ)に収める稲をつくる田部(たのべ)に由来する(東牟婁郡誌)といわれる。中心地区の田辺は『日本書紀』には牟婁津とあり、田辺湾に注ぐ会津(あいづ)川の古い河口港で、『源平盛衰記』には田部湊(たなべのみなと)とある。熊野参詣道の大辺路(おおへち)と中辺路の分岐点でもあり、交通の要衝として古くから口熊野(現西牟婁郡)の中心地であった。中世に新熊野権現(いまくまのごんげん)(闘鶏神社(とうけいじんじゃ))が建立され、江戸時代紀伊藩が国家老安藤氏をここに置いたのもそのためである。その錦水城(きんすいじょう)跡は会津川河口左岸にあり、市街地に城下町名残(なごり)をとどめている。河口右岸には田辺漁業の中心である江川港(えがわこう)がある。近世カツオ漁が盛んでクジラ漁も行われたが、いまはサバが主である。特産南蛮焼(なんばやき)かまぼこや貝ボタン加工に起源するボタン産業など水産業とのかかわりが深い。田辺湾東部の文里港(もりこう)は外材輸入港であったが現在輸入は中止されている。文里港に臨む新庄は中辺路一帯を後背地とする木材集散地として発展し、いまも製材工場が多い。山間部では林業への依存度が高い。そのほか、チャや果樹栽培、畜産、シイタケ栽培などが行われている。国の史跡に高山寺(こうざんじ)貝塚、磯間岩陰(いそまいわかげ)遺跡、三栖(みす)廃寺塔跡、国の天然記念物に田辺湾の神島(かしま)(暖地性植物群落)、鳥巣(とりのす)半島の泥岩岩脈、湯峯のユノミネシダ自生地などがある。また闘鶏神社、高山寺などの古社寺、扇ヶ浜海水浴場、奇絶峡、石神(いしがみ)梅林、世界遺産(文化遺産)の熊野古道や熊野本宮大社、龍神温泉、湯の峰温泉などの観光地、南紀青少年スポーツセンター、田辺市立美術館、熊野古道なかへち美術館などの施設がある。なお、吉野熊野国立公園に含まれる田辺湾北側の天神崎は自然保護のため、市民地主運動により企業から買い取られた。人口6万9870(2020)。

[小池洋一]

『『田辺市誌』全2冊(1952、1971・田辺市)』『『田辺市史』全10巻(1990~2003・田辺市)』


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