改訂新版 世界大百科事典 「画(絵)師」の意味・わかりやすい解説
画(絵)師 (えし)
一般に絵をえがくことを生業とする人,またはその職業をさすが,近代以前には社会的地位や身分をもあらわす。《日本書紀》によると,黄文(きぶみ)・山背(やましろ)両氏族が604年(推古12)に初めて〈画師〉を称したことが知られる。この7世紀初頭における画師は,すなわち,古代大和朝廷に奉仕していた特定氏族の世襲化した技芸に対して公式に与えられた,官職としての姓(かばね)であった。やがて,官営事業が活発になると,あらたに倭(やまと),高麗(こま),簀秦(すはた),河内などの画師姓諸氏族が活躍するようになる。8世紀初期に律令制が整備されると,中務省内に官営の絵画制作機構としての画工司(えだくみのつかさ)が設置された。この官司は,事務官としての正(かみ),佐(すけ),令史(さかん)各1人のほか,技芸官として画師4人と画部(えかきべ)60人,雑務職員の使部16人と直丁1人を擁していた。画工司の画師4人は長上(ちようじよう)ともよばれる制作主任で,当時の令制で大初位上(だいそいのじよう)の官位が与えられた。さらに,8世紀中期の《正倉院文書》によると,官職の画師は前代からの画師姓氏族の出身者が多く,正七位上や従七位下へと昇進して,ほぼ下級の官人待遇を受けていたことがわかる。なお,画師を含めて定員64人の画工司は,官営事業の増加にともなって,未選(みせん)という定数外の絵画熟達者を非公式の職員として採用した。また,当時さかんに令制外の官営工房が組織され,里画師とよばれる在野の工匠が必要に応じて諸国から招集された。こうして,前代の特定氏族で独自に伝習されていた絵画技術は,画工司の画師を中軸とした官営工房の集団制作において習得されていった。ところが,8世紀末に官営工房が相次いで廃止され,808年(大同3)には画工司も専任の画師2人と非常勤の画工10人に削減,縮小された。しかし,9世紀末から宮廷内に絵所(えどころ)が設けられると,画技の優劣によって選抜された巧匠がその職に任ぜられた。この個人的技量によって選ばれた工匠は,やがて,11世紀に公認された僧籍の絵仏師と身分や役割が区別されて,一般に〈絵師〉とよばれた。12世紀以降,絵所出仕の絵師は従来の八位から五位へと昇進し,絵所の預(あずかり)に就任して中級官人の待遇をうけた。だが,絵巻《絵師草紙》が絵師選任の裏面をしんらつに表現したように,当時絵師の生活は必ずしも安穏ではなかった。それでも,宮廷絵所の絵師を規範とし,院,幕府,有力寺社や大名などを支持層とする中世の絵師は,家系や画系を形成して独自な絵画様式の確立につとめた。他方,職人の絵師も中世にうまれ,のちのいわゆる町絵師や絵屋の職工につらなる。これら多様化した絵師層は,近世にいたって,江戸の狩野派を主軸として再編される。徳川幕府は幕府御用の奥絵師を設け,さらにその血縁者や門人家系による表(おもて)絵師,諸大名の抱(かかえ)絵師と絵師を序列化する制度をつくった。この絵師の職制は,技量より身分や格式の尊重によって画道の支配体制を樹立することであった。
執筆者:吉田 友之
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