畠山義就(読み)ハタケヤマヨシナリ

デジタル大辞泉 「畠山義就」の意味・読み・例文・類語

はたけやま‐よしなり【畠山義就】

[?~1490]室町中期の武将。畠山持国の子。持国の養子政長家督相続をめぐって対立し、応仁の乱の発端をつくった。

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精選版 日本国語大辞典 「畠山義就」の意味・読み・例文・類語

はたけやま‐よしなり【畠山義就】

室町時代の武将。畠山持国の子。初名義夏。持国の養子政長と家督相続をめぐって対立し、一時吉野に敗走したが、山名宗全の助けにより日野富子を頼って入京応仁の乱の発端をつくった。法名宝泉寺。延徳二年(一四九〇)没。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「畠山義就」の意味・わかりやすい解説

畠山義就
はたけやまよしなり
(?―1490)

室町後期の武将。室町幕府管領(かんれい)畠山持国(もちくに)の長男。初名義夏。持国には嫡出実子がなかったので弟持富(もちとみ)を家督後継者にしようとし、またその子政長(まさなが)を養子に迎えた。ところが妾との間に生まれた義就に1450年(宝徳2)家督を譲ったため畠山氏は、持国・義就派と、政長を支持する有力家臣派とに分裂、領国河内(かわち)を中心にして国人(こくじん)領主を巻き込んで戦いを繰り返した。将軍足利義政(あしかがよしまさ)、細川勝元(ほそかわかつもと)、山名持豊(やまなもちとよ)(宗全(そうぜん))が政長を支持したため、政長は64年(寛正5)管領に就任し家督を継いだ。しかし、まもなく義就は勝元と対立した宗全の支持を取り付け、67年(応仁1)政長の解任に成功を収めると、勝元の支持を受ける政長との間に戦端が開かれ、応仁(おうにん)の乱へと発展していった。乱後も畠山両派の争いは続き、義就は河内大和(やまと)、南山城(やましろ)の国人を巻き込んで転戦している。延徳(えんとく)2年1月12日死去。

[川島茂裕]

『佐々木銀弥著『日本の歴史13 室町幕府』(1975・小学館)』『鈴木良一著『応仁の乱』(岩波新書)』

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百科事典マイペディア 「畠山義就」の意味・わかりやすい解説

畠山義就【はたけやまよしなり】

室町中期の武将。持国の子。畠山家の家督をめぐり従弟の畠山政長と対立,山名宗全の応援を得て激しく争い,応仁・文明の乱の発端となる。乱後,河内(かわち)主要部をほぼ平定。
→関連項目新撰長禄寛正記高屋城春木荘放生津山城国一揆

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改訂新版 世界大百科事典 「畠山義就」の意味・わかりやすい解説

畠山義就 (はたけやまよしなり)
生没年:?-1490(延徳2)

室町中期の武将。持国の子。畠山家の家督をめぐり,従兄弟の弥三郎とその弟政長と激烈な争奪戦を演じた。1454年(享徳3)いったん弥三郎に家督を奪われるが,将軍足利義政の庇護により奪回。その後家督は政長に移るが,67年(応仁1)山名持豊の支援で再度継承する。応仁・文明の乱では西軍に属し,77年(文明9)講和後もひとり帰参せず河内に下向し,河内,紀伊を支配した。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「畠山義就」の解説

畠山義就
はたけやまよしなり

1437~90.12.12

「よしひろ」とも。室町中期~戦国期の武将。持国の子。初名義夏。伊予守・右衛門佐。持国はながく子がなく,弟持富を養嗣子としていたが,40歳で妾腹に生まれた義就が1448年(文安5)家督とされた。のち持富の子弥三郎を駆逐したが,60年(寛正元)弥三郎の弟政長が細川勝元らの支援で家督を認められると,河内国嶽山(だけやま)城にこもって幕府に抵抗。66年(文正元)山名宗全を頼ってゆるされ入京。翌年政長を討とうとして勃発した応仁・文明の乱では西軍の主力として活躍。77年(文明9)乱の終息で河内へ撤退し,同国の主要部を確保。83年,南山城に侵攻したが,山城国一揆の要求で撤兵。その後も幕府からゆるされず,河内・大和両国主要部の実力支配を続けながら病没。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「畠山義就」の意味・わかりやすい解説

畠山義就
はたけやまよしなり

[生]? 山城
[没]延徳2(1490).12.12.
室町時代中期の武将。「よしひろ」とも読む。持国の子。初名,義夏。右衛門佐。家臣が家督の義就を排して政長を立てようとしたため,畠山氏は2流に分裂,細川,山名の両氏に助けられた政長側が優勢で,義就は京都を追われて河内,紀伊の各地に転戦。やがて山名持豊 (宗全) を頼って文正1 (1466) 年入京,足利義政に謁した。翌年持豊と結んで政長を討とうとし,応仁の乱の発端をなした。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「畠山義就」の解説

畠山義就 はたけやま-よしなり

1437-1491* 室町時代の武将。
永享9年生まれ。畠山持国の子。父の養子である叔父畠山持富の次男政長と家督をあらそい,畠山家は両派に分裂。将軍足利義政の仲裁で一時は和睦するが,のち対立が激化。山名持豊とくんで政長・細川勝元方とたたかい,応仁(おうにん)の乱を誘発。乱後も河内(かわち),大和を転戦,延徳2年12月12日陣中で病死。54歳。初名は義夏。

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旺文社日本史事典 三訂版 「畠山義就」の解説

畠山義就
はたけやまよしなり

?〜1490
室町時代の武将
管領持国の子。持国は甥政長を養子としたが,のちに妾腹の義就に家督を与えようとしたので,一族が二分して争った。義就は山名宗全の援助をうけ,管領政長は細川勝元に頼って相争い,応仁の乱の一因をつくった。

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世界大百科事典(旧版)内の畠山義就の言及

【応仁・文明の乱】より

…これは管領の解任を意味するものであった。同日,政長と家督を争っていた畠山義就が幕府に出仕し,将軍に対面することが許されている。義就は将軍義政から処罰を受け,追討の綸旨まで出されていたのであるが,山名宗全の画策によって罪を許され,前年12月25日に上洛してきたばかりであった。…

※「畠山義就」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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