百済(くだら 朝鮮)(読み)くだら

日本大百科全書(ニッポニカ) 「百済(くだら 朝鮮)」の意味・わかりやすい解説

百済(くだら 朝鮮)
くだら

朝鮮古代の国名(4世紀前半~660年)。「ひゃくさい」とも読む。日本では大村などを意味する朝鮮の古語を訓読して「くだら」という。その前身は馬韓(ばかん)の伯済(はくさい)国で、4世紀前半に建国した。その基層文化には、南方の韓族系文化と北方の高句麗(こうくり)系文化とが共存している。

井上秀雄

前史(伯済国時代 4世紀前半まで)

伯済国は現在のソウル市南部にあって、この地方の丘陵谷間にあった初期農耕集落の連合体で、その社会は集約的な農耕生産を基調としていた。伯済国は帯方(たいほう)郡治に近かったので、早くから中国文化の影響を受け、経済的にも発展していた。伯済国は、313年に高句麗とともに帯方郡を滅ぼすと、近隣諸国と連合して百済国を建設した。

[井上秀雄]

小国統合時代(4世紀前半~346年)

王都慰礼(いれい)城は、ソウル市城東区風納里(ふうのうり)にあり、その領域は南漢江流域であった。伯済国から百済国への発展は、新しい農耕生産と厳しい国際環境に対応するため、小国が連合したためである。そのため政治の実権は旧小国の勢力を背景とする貴族たちにあった。

[井上秀雄]

領主的貴族連合時代(346~475年)

国内政治では、371年に王都が慰礼城から漢山城京畿(けいき)道広州)に移った。漢山城が慰礼城に比較的近かったので、真氏など旧王都地域を基盤とする貴族たちは、遷都後も勢力があったが、漢山地方を基盤とする解氏らに、しだいに押さえられた。文化面では360年ごろの博士高興による文字の伝来や、384年の仏教公伝など、多方面にわたる中国文物の受容が行われた。国際関係では、371年には平壌城を陥落させ、高句麗の故国原(ここくげん)王を討ち取った。この戦勝によって百済の国際的地位が飛躍的に向上し、百済の近肖古(きんしょうこ)王は東晋(とうしん)から鎮東将軍領楽浪(らくろう)太守の称号を与えられ、その後、歴代の百済王は中国王朝から内臣の称号を与えられた。勢いにのった百済は、370年代の一時期、遼西(りょうせい)郡方面に進出した。396年以後倭(わ)国と同盟して高句麗の南下を阻止したが、この倭国は朝鮮南部ないしは北九州の倭国で、日本の大和(やまと)王朝との国交は6世紀になって始まる。5世紀に入ると、貴族連合体制内部に変化が生じ、腆支(てんし)王を擁立した解氏が真氏にかわって中央政界の主導権を握り、王の外戚(がいせき)ともなった。

 475年に、王都漢山城が高句麗に攻め落とされ、蓋鹵(がいろ)王は殺害された。蓋鹵王は王権を拡張しようとしたが、これを好まない貴族たちが反発し、対高句麗戦に参加しなかった。蓋鹵王の敗北は領主的貴族の連合体制を軽視したためで、王権の弱さを暴露したものであった。

[井上秀雄]

宮廷貴族発生期(475~523年)

蓋鹵王の子文周王は熊津(ゆうしん)(忠清南道公州)に都を移した。文周王の擁立者は、熊津地方の勢力を代表する木劦満致(ぼくきょうまんち)らである。彼らはこの地方の小国を統合して高句麗に対抗するとともに、百済の国際的地位を利用して、中国文化の導入を図った。そのため、真氏や解氏など前代の貴族たちを宮廷貴族として迎え入れた。しかし、文周王は擁立者の木劦氏らを重視したため、貴族連合体制の代表者解仇(かいきゅう)と対立し、478年に殺害された。翌年解仇らは反乱を起こしたが、真氏がこれを鎮定した。

 この反乱を契機に、熊津地方の勢力を背景とする沙(さ)氏、燕(えん)氏、(はく)氏などの諸氏が台頭した。当時の貴族制は前代同様地域の利益代表者として、領主的性格が強かった。

 高句麗の南下を阻止するため、東城王(在位479~501)は新羅(しらぎ)と国交を開き、本格的な三国時代となった。しかし、なお小国の勢力が強かったので、三国はこれらの小国を自国の勢力下に入れるため相争った。地方政策では全国を22地域に分け、それぞれに王族を分封した。地方住民への権威づけのため、宋(そう)(南朝)などに、王だけでなく家臣の称号を求めた。このとき倭の五王が宋に求めた軍号は、百済王のそれよりつねに低位で、倭が百済を支配したとはいえない。東城王は王権の拡充を図り、貴族勢力を抑圧しようとし、かえって廃位、殺害された。武寧王(在位501~523)代には、加羅(から)諸国の支配権をめぐり新羅と対立し、これを打開するため大和王朝と国交を開いた。その後、百済は大和王朝の外交的、軍事的支援を求めるため儒教、仏教の新文化を供与した。

[井上秀雄]

宮廷貴族連合時代(523~660年)

538年に聖王(聖明王)は王都を熊津から泗沘(しひ)(忠清南道扶余(ふよ))へ移した。泗沘遷都の目的は、積極的な外交交渉を進めるためであった。泗沘遷都を契機に、領主的貴族制を脱皮し、中央集権的な宮廷貴族制に移行した。中央官制は六佐平を頂点に、内官、外官の官職も整備されたが、その運営は貴族の合議制、請負制をとった。王都を5部に、地方を5分に分け、軍政色の強い行政制度とした。554年に聖王が新羅との対戦で戦死したため、中央集権体制の整備に支障をきたし、加羅諸国を新羅に奪われることになった。その後、外交面、文化面では盛んに活動するが、軍事行動は比較的少なかった。642年に政変が起こり、戦時態勢を整えると、加羅地方に進出し、645年には新羅王都近郊まで侵入した。その後三国末期には唐の高句麗出兵も加わり激しい戦闘が続くが、660年に突然唐が戦略を改め、新羅と同盟して百済を攻撃し滅亡させた。滅亡直後から百済復興軍が新羅・唐連合軍と戦ったが、663年に、内部の権力闘争と白村江(はくそんこう)の戦いでの日本軍の敗戦とで、百済復興軍も降服した。

[井上秀雄]

『李丙燾著、金思燁訳『韓国古代史』上下(1979・六興出版)』『井上秀雄著『古代朝鮮』(NHKブックス)』『井上秀雄著『古代朝鮮史序説――王者と宗教』(1978・東出版寧楽社)』『井上秀雄著『変動期の東アジアと日本――遣唐使から日本国の成立』(1983・日本書籍)』


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