石丸定次(読み)いしまる・さだつぐ

朝日日本歴史人物事典 「石丸定次」の解説

石丸定次

没年:延宝7.5.11(1679.6.19)
生年:慶長8(1603)
大坂東町奉行を務めた江戸前期の幕臣通称,藤蔵。御書院組頭を経て,寛文3(1663)年大坂東町奉行となり,以後17年間その任にあって,大坂市政に大きな足跡を残した。大火水害後始末功績を残したが,商業行政の上ではさらに重要な施策を講じ,天下の台所・大坂の基礎を築いた。すなわち,両替商の統制をはかるための十人両替の設定,薪売買法の制定,三所綿市問屋・綿仲間の公認,天満青物市場の保護,菜種油屋と白油屋の紛争調停などを行い,諸商業の秩序確立に努めた。江戸幕府は幕初以来,楽市・楽座の伝統を受け継ぎ,仲間・組合の結成を原則的に禁じていたが,石丸定次のこのような商業政策は,幕府の政策転換を反映するものであったといわれる。晩年には専横のそしりを招き,自刃したと伝えられる。<参考文献>宮本又次『大阪人物誌』

(宮本又郎)

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改訂新版 世界大百科事典 「石丸定次」の意味・わかりやすい解説

石丸定次 (いしまるさだつぐ)
生没年:1603-79(慶長8-延宝7)

江戸前期の幕臣。大番組頭石丸定政の子で,通称は藤蔵。はじめ淡路守のち石見守。1663年(寛文3)60歳で大坂東町奉行となる。経済政策にすぐれた手腕をもち,油屋仲間の紛争の調停,天満青物市場の保護,綿仲間の公認,薪売買法の設定など,大坂の産業発展に貢献。また大火,津波,大洪水などに際して窮民救済につとめ,名奉行といわれた。77歳で在職中に没した。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「石丸定次」の解説

石丸定次 いしまる-さだつぐ

1603-1679 江戸時代前期の武士
慶長8年生まれ。石丸定盛の兄。幕臣。書院番組頭をへて,寛文3年60歳で大坂東町奉行となる。三所綿問屋(さんしょわたどいや)と綿仲間の公認,十人両替の制定など,大坂の商業政策に敏腕をふるった。寛文6年の大火,10年の津波,延宝2年の大洪水の時には窮民の救済につとめた。名奉行といわれたが,越権のそしりをうけて在職中の延宝7年5月11日自刃(じじん)したという。77歳。通称は藤蔵(とうぞう)。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「石丸定次」の意味・わかりやすい解説

石丸定次
いしまるさだつぐ

[生]慶長10(1605).江戸
[没]延宝7(1679).5.11. 大坂?
江戸時代初期の大坂東町奉行。特に延宝年間 (1673~81) の大洪水救援に治績があった。

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世界大百科事典(旧版)内の石丸定次の言及

【手形】より

…銀手形は近世の大坂が江戸の金遣い(きんつかい)経済に対し銀遣い経済であり,そこでの大量の商取引には丁銀(ちようぎん),豆板銀(まめいたぎん)などの秤量(ひようりよう)銀貨が使われたが,その銀貨は秤量の煩雑,携帯・運送の不便,真贋鑑定の困難を伴い,かつ正貨決済にも不便なことから使われたのである。寛文期(1661‐73)に,大坂諸商業に対する正規の作成,問屋・十人両替の組織化が東町奉行石丸定次によって計られ,この十人両替にその後中小の両替屋が結び,近世の信用機構,信用制度が拡充されると,銀手形はよりいっそう流布した。江戸中期ころから,計量貨幣の金銀貨が通用したが,大坂では手形の使用が盛んで,大坂近在や隔地間の取引をはじめ,都市内の薪炭から米魚に至る節季の支払にまで用いられた。…

※「石丸定次」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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