石山本願寺(読み)いしやまほんがんじ

精選版 日本国語大辞典 「石山本願寺」の意味・読み・例文・類語

いしやまほんがんじ ‥ホングヮンジ【石山本願寺】

後の大坂城本丸にあたる地(中央区大阪城)にあった浄土真宗の寺。明応五年(一四九六蓮如(れんにょ)が開き、天文元年(一五三二山科本願寺焼失ののち、本寺となる。織田信長との石山合戦の末、天正八年(一五八〇)焼失。石山御坊石山御堂。大坂御坊

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デジタル大辞泉 「石山本願寺」の意味・読み・例文・類語

いしやま‐ほんがんじ〔‐ホングワンジ〕【石山本願寺】

現在の大阪城本丸の場所にあった浄土真宗本山。現在は廃寺。明応5年(1496)蓮如が建立したのに始まり、天文元年(1532)山科本願寺が焼かれてのち証如がここを本願寺とした。織田信長と対立し、天正8年(1580)降伏。退去の際に焼失。石山御堂。石山御坊。

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百科事典マイペディア 「石山本願寺」の意味・わかりやすい解説

石山本願寺【いしやまほんがんじ】

1496年蓮如が建てた隠居所に始まる浄土真宗の寺。大坂御坊・大坂本願寺が当時の呼称。現在の大阪城本丸の地にあったとされるが,異説もある。1532年山科本願寺が管領細川晴元軍勢と日蓮宗徒に焼かれてから,証如が本寺として造営寺内町を建て大坂発展の基礎となる。1570年以後織田信長と兵戈(へいか)を交え,11年間戦い(石山合戦),朝廷の調停により和議成立。寺は1580年7月破壊され,顕如は紀伊の鷺森へ移った。
→関連項目荒木村重一向一揆今井上町台地大阪[市]大坂城加賀一向一揆狩野元信雑賀雑賀一揆天満青物市場西本願寺村上水軍

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「石山本願寺」の意味・わかりやすい解説

石山本願寺
いしやまほんがんじ

摂津(大阪府)大坂にあった浄土真宗の寺。本願寺第8世の蓮如(れんにょ)が1496年(明応5)に山科(やましな)本願寺の支坊として建立したのに始まる。1532年(天文1)、山科本願寺が六角定頼(ろっかくさだより)と法華(ほっけ)宗徒のために焼滅したため、時の法主証如(しょうにょ)がここに移り、本願寺と定めた。その旧地は現在の大阪城本丸にあたる。この地は四面河川に囲まれた要害の地であったため、織田信長は中国進出の拠点にしようとして、1570年(元亀1)本願寺を他に移すことを要求した。しかし本願寺第11世顕如(けんにょ)はこれを拒否、以降1580年(天正8)までの11年間、諸国の門徒を結集し、信長と覇を争う諸大名とも手を結んでの戦いを続けた。これを石山戦争あるいは石山本願寺一揆(いっき)という。結局この戦いは本願寺に利なく、正親町(おおぎまち)天皇の勅令により和議がなって、顕如は紀伊国(和歌山県)鷺森(さぎのもり)に退去し、寺地を信長に任すこととなって石山本願寺は廃絶した。

[森 章司]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「石山本願寺」の解説

石山本願寺
いしやまほんがんじ

大坂坊・石山御坊・石山御堂とも。大阪市中央区にあった浄土真宗の寺。1496年(明応5)本願寺8世蓮如(れんにょ)が摂津国東成(ひがしなり)郡生玉(いくたま)荘大坂に築いた隠居所に始まる。1532年(天文元)10世証如のとき,山科本願寺が六角定頼軍と法華門徒に焼打され,石山に本山を移転。本山を中心に形成された寺内町(じないまち)は交通の要衝で,商人が集住する経済の一中心に発展し,大坂の原型となる。人口は2万人以上と推測される。耶蘇会士ビレラの手紙に「日本の富の大部分はこの坊主の所有なり」と記された。11世顕如(けんにょ)の時代に織田信長と対立,70年(元亀元)から11年にわたる石山合戦の末,80年(天正8)に紀伊国鷺森へ退去,石山全土が焼失した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「石山本願寺」の解説

石山本願寺
いしやまほんがんじ

大坂石山(現大阪城があるところ)にあった浄土真宗の寺
1496年,本願寺8代法主蓮如 (れんによ) によって創建された石山道場に始まり,1532年山科 (やましな) 本願寺焼失後,同宗の本寺となり,寺域を広げ,寺内町が形成され,戦国大名と肩を並べる一大領主勢力となった。天下統一を目ざす織田信長と激しく対立し,石山合戦は10年余続いたが,ついに和睦し,'80年退去の際,寺も寺内町も焼けた。

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世界大百科事典(旧版)内の石山本願寺の言及

【安土桃山時代】より

…(2)織田政権後期 室町幕府が滅亡した73年から,本能寺の変によって信長が倒れる82年まで。信長の単独政権として全国制覇をめざして展開されるが,その過程で最も強く抵抗した一向一揆勢力の鎮圧に成功した石山本願寺陥落(石山本願寺一揆)が,さらに一つの区切りになる。(3)豊臣政権前期 本能寺の変の直後,豊臣秀吉が明智光秀を破って信長の後継者としての地位を獲得した82年から,小田原征伐についで奥州の鎮定に成功した91年まで。…

【大阪[市]】より

…地形は,淀川大和(やまと)川がつくった沖積低地と上町台地によって構成される。上町台地は大坂城付近から南へ向かって細長く半島状につづく台地で,淀川に臨む台地北部は,古代の難波(なにわ)京と四天王寺,中世後期の石山本願寺,近世の大坂城が立地して,大阪の長い都市史における中核をなしてきた。台地の北側と西側には,天満から船場島之内を経て難波(なんば),粉浜(こはま)にかけて,砂州と呼ばれる微高地が帯状に伸びている。…

【織田信長】より

…安土桃山時代の武将。尾張守護代織田大和守家の奉行の家に生まれた。織田氏は越前丹生郡織田荘が本貫で藤原氏を称したが,本姓は忌部氏といわれる。信長も初めは藤原氏を称した。のち平氏になったのは源平迭立(てつりつ)の思想によるという。曾祖父は信良,祖父は信貞といったらしいが,父の信秀は傑出した武将で尾張勝幡(しよばた)城に拠り,津島の経済力や天王社の信仰を背景に一族間に優越し,美濃・三河を攻略,信長を那古野城に置き,斎藤利政(道三)の女をめとらせた。…

【寺内町】より

…1479年(文明11),80年の山城の山科本願寺では寺内町が成立し,8町が〈在家又洛中に異ならず〉(《二水記》)という状況であった。ついで大坂の石山本願寺には当初寺内6町のち10町を超える町が発展した。そして,石山の周辺である摂津,河内,和泉,大和には寺内町が急速に成立し,富田林(とんだばやし),大ヶ塚(だいがつか)(大阪府南河内郡河南町),八尾,久宝寺(きゆうほうじ)(大阪府八尾市),招提(枚方市),富田(とんだ)(高槻市),貝塚今井などの寺内町ができた。…

【滝川一益】より

…75年の長篠の戦には徳川家康とともに先陣を務め,8月からの越前攻略に参陣。76年の天王寺での一向宗徒攻撃,78年の石山本願寺攻撃に参加,6月に九鬼嘉隆の6艘のほかに一益も1艘の鉄甲船を仕立てて大坂方の小船に大打撃を与えている。80年,81年に後北条氏の使者の信長への取次ぎに当たり,東国筋の担当を始めた。…

【本願寺】より

…89年(延徳1)蓮如は職を実如に譲り隠退,96年(明応5)摂津国大坂に坊舎を建て隠棲した。のちの石山本願寺である。 1532年(天文1)山科本願寺が細川晴元との争いで焼かれ,10世証如は本拠を大坂に移した。…

※「石山本願寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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